眠りの園/始まり







1.

ベルガラックからの帰り道、エルトリオはそれに気付いた。
前々から不審に思っていた人も通わぬ高所に立てられた柱列から、ぼんやりと光が漏れている。一度確かめたいと思いつつも余りの難所に二の足を踏んでいたその場所であることに軽い興奮を覚えつつ、暁の空の下愛馬を駆った。


断崖をよじ登り漸く辿り着いた先は古い神殿の跡だった。
立ち並ぶ柱頭の中央、竜の飾りの付いた石版から先程見た光が洩れ出ている。何事かと近寄ろうとした瞬間、石版は急に激しく輝き出した。思わず目を閉じ、盾をかざす。まばゆい光が収まった時、何も書かれていない石版の前に一人の娘が立っていた。娘はゆっくり辺りを見回し、呆然と立ち尽くすエルトリオの姿に目を留めた。
「ここまで登ってこられるヒトがいようとは」
不思議な威厳を帯びて娘の口からそのような言葉が零れ落ちる。
「そなた…天人か?それとも妖しの者か?斯様な場所に突然現れるとは常人ではあるまい」
だがしかし視線がぶつかった瞬間、もうこの者が何者であってもよくなってしまった。朝日に輝く黒髪、銀月のように弧を描く眉や桜貝のような唇、何よりも不思議な輝きを放つ黒い瞳がエルトリオを強く引き付ける。惚けたように見詰めるエルトリオに娘は答えた。
「私はヒトではありませぬ。ましてこの世界の者でも。人身を取ってはいるけれど本性は別のもの。かつてヒトは我々を『竜神族』と呼んでおりました」
「竜神族…城の魔法使いが語ってくれた話の中で聞いたことがある。神鳥の伝説の中で」
「そう、我々がこの世界にいたのはそれ程昔のこと。今ではこちらで我々の存在を覚えているのはごくわずか」
一見若く美しく見える娘が古風な話し方をするのに最初は奇異な印象を受けたが、慣れてしまえばその衣装と相まって不思議な魅力を醸し出す。
「竜神族…初めて見た。なんと美しい一族であろう」
そう呟くと娘は「おや」というような顔をした。
「なぜ驚かない?私はヒトではないと言ったのに」
「あなたがヒトであろうとなかろうと関係はない。あなたはあなたであろう?違うのか?」
そうだ。ヒトであろうとなかろうと関係ない。ただその存在が自分を引き付けて止まない。
「珍しいヒトもいたもの。我々の存在に怯えるかと思っていたのに」
微かな笑みを含みつつ答える娘の姿に見とれていたが、ふと我に返り次の問いを絞り出す。
「その竜神族の姫君がなぜ斯様な場所に一人いらっしゃる?どちらかへ参られるのか?」
もっとこの美しい人と一緒にいたい、そう思いつつ問いかけると娘は華やかに笑った。
「私はこの世界に降り立ったばかり。どこに行くかは決めておりませぬ」
その言葉にエルトリオは一歩前に踏み出す。もはやこの人しか目に入らぬ。恋をしてしまった愚かな男の目には。
「どうか姫君、サザンビークへ。私が御案内いたそう。
我が名はエルトリオ。サザンビークの者です」
「私の名はウィニア。案内いただけるとはありがたいこと。よろしくお願いいたします」



2.

神の前で誓った二人の永遠の愛。愛しいウィニアの手にはアルゴンハートがあしらわれた指輪がしっかりとはめられている。
「あなたは変わっている。ヒトではないと何度も言うたのに、この私を妻に迎えようとは」
祝宴も果てて戻った寝室でウィニアは微笑む。
「ヒトであろうとなかろうとウィニアには変わりない。誰が何と言おうと私のただ一人の妻だ。私がアルゴンリングを捧げるただ一人の人だ」
そう言いつつエルトリオは背後から彼女の肩を抱く。
「恐ろしくはないの?この身が変じれば城一つ焼き滅ぼすなど容易いこと。あなたの父もそれを案じていたのでは?」
「…焼き滅ぼされたい」
「えっ?」
さらに強く腕の中のウィニアを抱き締めながらエルトリオは囁く。
「あなたを得るためならば王位など惜しくはない。いっそ地獄の業火に焼き尽くされてしまった方がましだ。どうか焼き尽くしておくれ、あなたを愛するあまり愚かなこの男を」
「私の焔はあなたを滅ぼそうとする者にのみ向けよう。あなたには私の愛だけを」
そう言いながらウィニアは身体を回し、エルトリオと向き合った。
「ウィニア…」
「エルトリオ…」
口づけを交わし合う。最初は優しく、次からは激しく。
「今宵からは一つのものに。魂の全てを預け合おう」



3.

それは突然やってきた。
平和な夜の静寂を破り、どこからともなく飛来した巨大な竜がサザンビーク城のテラスに降り立ち、激しい咆哮を上げる。
「出て来よ、我が娘を盗んだ者め!」
挑みかかろうとする衛兵を薙ぎ払いつつさらに咆哮を上げる。その姿を見とめウィニアが駆け寄ろうとしたが、傍らのエルトリオが引き止めた。
「父様!」
「帰るのだ、ウィニア。ヒトと我々とは相いれぬもの。結ばれる運命にはないのだ」
巨大な竜の口から言葉とともに紅蓮の焔が巻き起こる。それをものともせずウィニアが前に進み出た。
「帰りませぬ!私の心はこの方ただ一人のもの。父様と言えど従えませぬ」
「そうか」
竜は喘ぐように言うと傍らに立つエルトリオに目を向けた。
「それ程までに執着するのであれば焼き滅ぼしてくれよう、その男を!」
はっと剣を構えるエルトリオ。しかしその前にウィニアが立ちはだかる。 「父様と言えど許しませぬ!どうしてもと言うのであればまず私から焼き尽くしなさいませ!」
怒りの雄叫びとともに竜は舞い上がった。
「愚か者め、竜に竜の炎が効くものか。…ならばよい、この城ごと滅ぼしてお前の執着断ち切ってくれよう」
「待て!…私一人を殺せばいいのだろう。他の者を巻き込まないでくれ」
エルトリオは竜の口の前に立ちはだかる。この国の人々、特に父や弟に危害を与える訳には…
「ふん、いい覚悟だ。我が娘を誑かした報い、その身に受けるがよい!」
かっと開かれた口から炎が巻き起ころうとしたその瞬間、
「父様、お待ちを」
ウィニアが静かに前へ進み出た。
「この者たちに危害を与えないと約束を。そうすれば私は里へ戻りましょう」
「ウィニア!」
「おお、よくぞ言うた。聞き分けてくれて父は嬉しい。そうと決まれば長居は無用。すぐに里へ戻るぞ」
「はい、父様…」
一瞬振り返ったウィニアの瞳はまっすぐエルトリオに向けられた。唇が微かに「必ず戻る…」と動いたように思われたが、あっという間に竜が連れ去ってしまったのだった。



「連れ戻すことは罷りならん。あのような者が王妃では国の安寧が保てぬからな」
数日後、玉座の間では旅姿のエルトリオと父王が激論を交わしていた。傍らでクラビウスが二人をはらはらと見守る。
「アルゴンリングはありませんぞ、父上。サザンビーク王族の妃だけがその手にはめる指輪は、今ウィニアの手に。何者も私の妻になることはできません」
「そのような瑣末なことが問題なのではない!いいか、ちゃんとした人間の妃を…」
「私はこの城を出て彼女の行方を追います。父上が何と言われようと私の妻はウィニアただ一人。障害があれば戦ってでも取り戻します」
「この国の王位はどうするのだ。お前は王位継承者、この国に対して責任があるのだぞ」
「王位はどうぞ、クラビウスに。私は王位継承権を捨てます。愛する人無くして王位を全うすることなどできません」
「エルトリオ!」
「兄上!」
思わず立ち上がる二人に薄く笑いかけるとエルトリオは言った。
「父上、御身健やかに。クラビウス、我侭な兄で申し訳ない。この国を頼む」



4.

竜神族の里への道は封印されていて、只人には開くことができないと彼女は言っていた。でも一族の血を引く者が触れると自然に受け入れると。かつてウィニアと取り交わしたロケットの中の一房の髪を石版に当てると、石版は強い光を放ってエルトリオを包み込んだ。
光が消えた時、見知らぬ洞窟の中に立っている自分に気付いた。壁には古い時代に描かれたと思しき竜の壁画が。そして何より見たこともない魔物が襲い掛かってきて緊張が走る。エルトリオは剣を構え、魔物に対峙した。


洞窟はいつ果てるとも知れず続く。聖水の加護を得てもなお湧き出る魔物との戦いに消耗しつつも、この先にきっと待っている愛しい人の面影を胸に抱いてエルトリオは進む。
急に目の前が開けた。冷たい風が頬を撫で、疲れを拭い去っていく。雲海を眼下に眺めて、こんなにも高いところまで登ってきたのだ、と感慨も湧く。回復のための魔力も薬草も尽きてしまったけれど、もうすぐ辿り着きそうな気がする。彼女の故郷に。
ウィニア、もうすぐ…もうすぐ逢える。もう二度と離すものか…






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