道の始まり/meteor2




2.

王もまた、姫がひとりぼっちで置かれることのないよう、彼なりに気を遣っていた。常に予定を入れ、何もせず部屋に一人でいることのないようにしていたものの、それは結果的に一日中勉強ばかりということになってしまったのである。姫もまた文句一つ言う訳でもなく従っていたため、周囲には何の不満もないものと見なされてしまっていた。
そんなある日のことだった。どんなに細かく予定を組んで勉強三昧の日々であるとはいえ、教える側も教えられる側も生身の人間である。文法の先生が体調を崩してその日の講義が休みとなった。いつもならば代わりの講義が入るのであるが、たまたま他に手空きの者はおらず、全くの休みとなったのである。
「どうしたらいいのかしら」
初めての事態にミーティア姫は戸惑った。今までは周囲の者が予定を組んでくれてその通りにしているだけだったため、急に休みになっても何をしたいのか、何をすればよいのか分からないのである。
「せっかくでございますし、いつも時間がなくてできないことをなさってみてはいかかでしょうか」
助け舟を出すつもりでメイドがそう言うとミーティアは首を傾げた。
「何かあったかしら…」
「そうでございますねぇ…ああ、そうそう、前に図鑑が見たいと仰っておいででしたけど、図書館に新しいご本が入ったそうでございますよ」
「まあ」
「それは美しい挿絵が描かれているのだとか。そんなご本が幾冊もあるのだそうでございます」
メイドの言葉にミーティアの目が輝いた。
「見てみたいわ。読ませてもらえるかしら」
その様子にメイドはにっこりとして答えた。
「勿論でございますとも。姫様でございましたらお望みになればなんなりとお読みになられましょう」
「じゃあ、今日の午後は図書館に行くわ。どんなご本なのか楽しみよ」

           ※          ※          ※

世界で一番の蔵書を誇るこの図書館の司書は扉の開く重々しい音に顔を上げた。視線の先、城内からここへ入る扉の前で心細気な顔でこちらを窺っているのはこの城の王女、ミーティア姫であった。
「姫様、いかがなされましたか」
司書は急いで立ち上がり、礼を取った。王族の前でのうのうと座っている訳にはいかない。館内にいた数名の学者も驚いて顔を上げ、司書に倣った。
「あ、あの、…ごめんなさい、どうぞお勉強を続けてくださいね」
館内の者が一斉に立ち上がったことに驚いて、ミーティア姫は慌てて言った。そして学者たちがまた勉学の世界に戻っていくのを見届けた上で司書の方へ向き直った。
「今日はお勉強がお休みになってしまったの。なので図書館へご本を読みに来たのよ。新しいご本が入ったと聞いたのでそれを読みたくって」
「左様でございますか。お聞き及びの通り素晴しい写本を数冊、入手いたしましてございます。どうぞこちらへ」
無類の本好きでもある司書は同じように読書を好む者を喜んだ。この幼い姫が読書を好むというのなら末頼もしいことであると。世の中には本を読むことを好まぬ者もいる。とある大国の王子に至っては勉強自体が大嫌いで一字たりとも本を読もうとしないという。
そのような主君ではなく、本を読みたい、と言う王女に仕えることができたことを喜んだ。そして深く考えずに新しい本が並ぶ本棚の前へ案内したのである。
「中には珍しい写本もございます。どうぞお気をつけて扱っていただけますよう」
本は大変貴重な物だった。一字一字間違い無いよう人の手によって写され、挿絵もまた絵師が直々に描く。さらに字を書いていくそこは羊皮紙、羊の革を非常に薄く鞣したものである。分厚い書物などは羊を何頭も必要とした。
「ええ。もちろんよ」
姫はそう答えて早速本棚から一冊、抜き出した。世界の珍しい植物の図鑑である。司書は足台やクッションを用意して姫が読みやすいようにしてやると仕事に戻った。



しばらくの間、図書館の中はしんと静まり返り、頁を繰る音とペンを走らせる音ばかりが響いていた。ミーティア姫も嬉しそうに本を眺めていたのだが、しばらくすると読み終わったのか立ち上がり新しい本を取り出した。司書はどの本を取ったのかあまり気に留めずにいたのだが、「はっ」と激しく息を飲む音がして顔を上げた。
視線の先で姫が恐ろしいものでも見たかのように顔を強張らせている。
「いかがなさいましたか」
という司書の問いに、
「な、何でもないわ」
と震える声で答え、急いで本をしまう。そして、
「どうもありがとう、お邪魔しました」
と口早に言って図書館から出て行ってしまった。
その様子に、はて、と司書は首を傾げたものだったが、その時はついそれ以上の追求はしなかったのだった。

           ※          ※          ※

その夜のことだった。
ミーティア姫を寝かし付ける役目のメイドが、
「おやすみなさいませ」
と寝台の帳を下ろして部屋を出ようとした時、啜り泣くような物音を聞いたのである。
「姫様?」
気になってそっと帳の内を窺うと姫が身体を起こし、枕を抱えている姿が透けて見えた。
「いかがなされましたか?」
その声にちょっと顔を上げたが、すぐまた俯いて枕に顔を埋めてしまった。
「お加減がよろしくないのでございますか」
心配になったメイドが帳を上げ、脈を取ろうとした時、姫が急に抱きついてきた。
「ひ、姫様?!」
「ふえっ、ぐすっ、こわっ、こわいのっ」
「な、何も怖いものはおりませんですよ。お城はちゃんと近衛兵さんたちがお守りしていますから」
初めての事態に驚いて、メイドは吃ってしまった。姫は仕えるようになってこのかた、今まで一度も物に怯えて泣いたりしたことがなかったからである。
「ちがっ、ちがうのっ、お、おばけなの」
「お化けでございますか」
メイドは恐る恐る辺りの様子を窺った。が、部屋はいつもと全く変わり無い。暖炉では熾火が静かにはぜ、灯火が揺らめいているばかり。
「何もおりませんですよ、姫様。ご安心くださいませ」
気持ちを落ち着かせるよう、ゆっくり優しく言い聞かせる。しかし姫は一層しがみついて、
「だって、だっているんですもの。ぐすっ、目をつぶるとっ、見えるの」
と言い募る。けれどもメイドはその言葉にはっとした。
「姫様、昼間に何か怖いものをご覧になられたのですか」
「み、見たわ。ぐすっ、図書館で、ご、ご本、ふえっ、怖いご本、ぐすっ、がいこつがっ、いやっ、ふえええええええええん!」
その時の恐怖を思い出したのか、一層激しく泣き出してしまった。
「が、がいこつがっ、こっ、こっちに来るの。ふえっ、きちゃだめって、ぐすっ、追い払っても、こっ、こっちに来るのっ!」
しゃくりあげながら懸命に話す姫に、メイドは引き付けでも起こしたらと気が気では無い。
「さあさあ姫様、こんな大きなお城にはそんな魔物は出てこられないのでございますよ。出てきたとしても兵隊さんたちが追い払ってしまいます」
「ほ、ほんと?」
メイドの言葉に姫は泣き止んだ。
「本当でございますとも。それでもご心配なのでしたら朝まで付いておりますよ」
ミーティア姫はしばらくの間黙ってメイドの顔を見詰めていたが、やがてこくりと頷いた。
「…ごめんなさい…」
気持ちが落ち着いたのか小さな声で謝る。
「姫様がお休みになられるまでこちらにお付きいたしております」
メイドがそう言うと、姫は恥ずかし気に微笑んで、
「ありがとう」
と呟いたのだった。



夜が明けると図書館ではすぐに作業が始まった。幼い姫の眼に触れては不都合があるであろう本を集め、司書の背後の本棚に隔離するのである。残酷な描写のある本は勿論のこと、あからさまな恋愛表現のある本も集められた。その中には昨日ミーティア姫が読んでいた本もあった。 それは解剖学の本であった。扉絵に人体の骨格図が描かれていたのである。この絵に姫が怯えたのだった。





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2006.1.14 初出 2006.8.26 改定










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