道の始まり/meteor3




3.

一日の終わり、トロデ王は愛娘と正餐の食卓に着いていた。親子とはいえ王たる身、食事の時ぐらいしか一緒にいることができない。そのため王はこの時間を何よりも大切にしていた。
王族とはいえ、常の食事はそんなに豪華なものではない。盛大な晩餐会ならいざ知らず、質実剛健を旨とするトロデーンの食卓は割合地味なものであった。それでも幾皿も並ぶことには違い無い。今夜の食事は蟹のポタージュに甘海老とブロッコリーのサラダ、鱒のポワレに牛頬肉のシチューのパイ包みだった。
食事のマナーは厳しく躾けられていたものの、親子二人水入らずの食事である。口喧しく言われることもない。二人は向かい合って座り、会話しながら心楽しく食事していた。
デザートが並ぶと、王は、
「こちらにおいで」
と手招きした。その言葉に姫は嬉しそうな顔になり、隣に座る。そして父王がオレンジとチョコレートのクレープを食べている横で牛乳をたっぷり使ったココアを飲み始めた。
「姫や」
その様子を、目を細めて見ていたトロデ王だったが、ふと言わなければならないことを思い出して口を開いた。
「なあに、お父様」
姫が隣の父王を振り仰ぐ。楽し気な光を湛えた今は亡き母后譲りの碧の瞳を見て、これから伝えることがそこに影を落とすことになるかもしれぬ、と思うと王の心は痛んだ。
「明日からワシは領地の見回りに出なければならん。明後日のお茶の時間には戻ってくるが、それまでお留守番できるかの?」
できる限り優しく言ったつもりだったが、案の定ミーティア姫は悲しそうな顔になってしまった。
「そうなの…」
それでも大好きな父に心配を掛けまいと懸命ににっこりしようとする。
「ちゃんとお留守番できるわ、お父様。でも早く帰ってきてね」
「そうじゃな、なるべく早く帰ってくるからの」
姫のいじらしい言葉に王は髪を撫でてやりながら答えた。
幾度この小さな娘の存在に救われてきたことか、と王は思う。妃を失い、闇の中にあるも同然の自分の生活に真直ぐに差し込んできた春の光のような我が娘。無心に己を慕ってくれる存在が、生きて自分に課せられた王としての責務を全うしようという気力を取り戻させてくれたのである。
そんな何物にも替え難く大切な我が子の顔が悲しみに陰ることのないよう、王は悲しい話や恐ろしい話がミーティア姫の目や耳に入らないようにしていた。いつかは話さねば、とは思いつつも亡き妃の話を一切していなかったのもそのためである。自分の誕生と引き替えになったかのように母が亡くなった、と聞いたらさぞ悲しむだろうと思うと、トロデ王にはとても話すことができなかった。
しかし、姫のために聞かせない、というのは真実の半分だけだったのかもしれない。王自身、亡き妃について語ることが未だにできずにいたのだから。亡き妃の面影は王の心に深く刻み込まれている。亡くなって幾年が過ぎようと、色褪せることはない。何か一つ、思い出を語れば心の中のもの全てを曝け出し、自律を失って取り乱してしまうのではないかと恐れていた。それが王たる者に相応しいとは到底思えないが故に。
ごく小さな頃は、母について何も聞かせてもらえないことに不思議そうな顔をするだけだったミーティア姫も、今ではそれに気付いていた。そして「何も聞かなければお父様が悲しむことはないのだ」と幼いながらも悟って何も言わずにいたのである。
「そうじゃ、何か欲しいものはあるかの?何でもよいぞ、お土産にしようぞ」
しんみりとした雰囲気を払おうとトロデ王は明るい声で話を変えた。
「お土産?」
「そうじゃ、何がいいかの。お人形かの、それともご本かの?」
そう、姫には片親しかいない、ならば自分がその分余計に可愛がっても悪いことはあるまい、とトロデ王は考えていた。できる限りのことはしてやりたい、世界で一番幸せにしてやりたい、と。
「ん…」
「何でもよいぞ。新しいドレスが欲しいなら仕立て屋を呼ぼうぞ」
その言葉に姫はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げて王を振り仰いだ。
「あのね、お父様。今ミーティアはお兄様かお姉様が一番欲しいの。そうしたらお父様がいらっしゃらなくても寂しくないと思うわ」
王は絶句してしまった。他意のない、無邪気な言葉だったが故に、重かった。
「ひ、姫や…それはちと…」
何とか絞り出した答えにミーティア姫は一瞬訝し気な様子を見せたが、王の表情から何かを感じ取ったのだろう、さりげなく表情を改め、
「そうなの?じゃ、何もいらないわ。その分早く帰ってきてね、お父様」
と言った。
「勿論じゃとも。ちゃんと姫と一緒にお茶を飲むからの」
そう答えて王はまた姫の髪を撫でた。
(こんな子供にまで気を遣わせてしまって、まだまだじゃな)
「はい、お父様」

           ※          ※          ※

次の日、トロデ王は馬車に乗って出掛けて行った。ミーティア姫も城門まで見送って手を振る。
馬車が見えなくなると姫は、
「さっ、お留守番なんだから」
と呟いて自分の日課へと戻った。父がいないことは寂しかったが、姫も姫なりに期待に応えようと思っていたのである。「お留守番頼むぞ」と言われたのだから。
それでもやはりどこかにぽっかりと穴が空いているような感じは否めなかった。一生懸命ピアノの稽古をしても聞かせる相手がいなくては何の張り合いもない。世話係のメイドたちは皆忙しく、のんびりピアノを聞いている訳にはいかなかった。大人たちは皆、仕事を持っている。自分のわがままでそれを邪魔してはいけないということをミーティア姫は充分承知していた。


王が帰って来る日、ミーティア姫は心配で勉強が手に着かずにいた。まして冷たい雨の降る日であったから。
トロデ王への願いは姫の本心だった。慣れていたとはいえ、たった一人で大人ばかりの世界にいるのはとても寂しかったのである。同じ年頃の子供と遊んだことのないミーティア姫には「友達」という概念が思い付かなかった。それで「お兄様かお姉様」と願ったのである。
けれどもその願いは叶いそうも無い。その時の父王の顔を思い出せば。
ミーティア姫は小さく溜息を吐いた。それは妙に大人びていて、自分でもはっとしてしまうぐらいに部屋に大きく響いた。
(お父様、早く帰っていらして)
窓に打ち付ける雨の音を聞けば、ますますそう思わずにはいられない。お茶の時間はとうに過ぎていたが、王の帰還を告げる先触れの声はしなかった。
(こんな雨ですもの、きっと冷えていらっしゃるわ)
と姫は考え、メイドに父王の部屋をよく暖めておくように頼んだ。厨房には帰ってきたらすぐに熱いお茶が出せるように指示を出す。そうやって動き回ることで心細い思いを我慢し続けていた。
(お父様、どうか無事で帰っていらして)
手練の近衛兵が護衛についていたが、もし魔物の大群に遭っていたら、と心配の種は尽きない。
と、階下で扉が開く音がした。たくさんの人が動き回る気配がする。どうやらこの城の主人が帰ってきたらしい。
「お父様!」
ミーティア姫は立ち上がり、父を出迎えるために部屋を駆け出して行ったのだった。





                                 (終)



2006.1.14 初出 2006.9.26 改定










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