道の始まり/meteor1





道の始まり/meteor





1.

トロデーン城、三階西側テラス。
少女が一人、ぽつんと座っていた。絶えず吹き付ける海からの風に裾が翻り髪が乱れることも気に留めず、飽くことなく空を見上げている。
「姫様」
声が掛かり、「姫」と呼ばれた少女は振り返った。
「お寒うございましょう。どうぞ中にお入りくださいませ」
メイドのお仕着せを身に付けた女が肩にストールを掛けてやる。
「…はい」
姫はおとなしくそう答えて立ち上がると、名残惜し気にもう一度空を見上げた。視線の先には二羽の鷹が大空に舞っている。
「何をご覧になられていらっしゃったのでございますか」
メイドの手に促され、少女はストールに包まれたまま扉へ向かった。
「あのね、鳥を見ていたのよ。とっても高いところを飛んでいたの」
「まあ、左様でございますか」
「あんなに高いところを飛べたらどんなにすてきかしら。ミーティアも鳥になってみたいわ」
無邪気なその言葉にメイドはつられたように微笑んだ。
「ですが姫様、そのように高いところにおいでになって、落ちてしまわれたらどういたしましょう」
「だって鳥ですもの。落ちたりなんてしないのよ」
両手を腰に当てて得意気に言ったのだが、あっさりあしらわれてしまった。
「鳥になるなんて考えただけでも恐ろしいことでございますわ。あんなに高いところに昇ったら目が眩んでしまいます」
「そうかしら…」
釈然としていない様子のミーティア姫を連れ、メイドは城内への扉を開けた。
「それにお勉強のお時間でございましょう。先生をお待たせさせては申し訳ありませんもの」
「そうだったわ。ええと、ピアノだったわよね。ちゃんと練習していてよ」
二人は話しながら長い回廊を歩いていく。
「本当に姫様はピアノのお稽古にご熱心で…ですが先生にも言われましたように、一日に一時間以上練習してはなりませんよ」
「ええ、ちゃんと守っていてよ。でももっと弾けたらいいのに。いっぱい練習したいわ」
不満気な姫にメイドは諭した。
「姫様のお手はまだ、お小さくていらっしゃいます。何時間もピアノを弾いたら悪くされてしまうでしょう。それにこの前も練習のし過ぎでお熱を出されたでございましょう?」
「だってあれは風邪を引いていたんですもの。お外に出てはいけない、って言われてお部屋の中にいなければならなかったのよ。ご本もみんな読んでしまったし、刺繍も出来てしまったし。ピアノを弾くことしかできなかったんですもの」
「ご無理はなさいませんよう」
そう答えながらメイドの心は痛んだ。ミーティア姫には兄弟姉妹がいない。同じ年頃の親しい友人もいない。たくさんの家臣にかしずかれて大切にされているものの、それは大人ばかりの世界であり、さらに主人と使用人の関係であった。王たるもの、並び立つ者のない孤高の存在であるとはいえ、まだ子供であるミーティア姫にそれを強いることはあまりに憐れ。せめて二親揃っておればまだよかったのかもしれないが、姫の母親は身罷って久しかった。漸く成長した世継ぎの御子を麻疹で失い、その衝撃で流産してしまった姫の母后は周囲の反対を押し切って身籠り、何とか月満ちて姫を産み落とした。だがやはりそれがいけなかったのか産褥熱で亡くなってしまったのである。
父トロデ王は深く悲しみ、後添えも迎えずただひたすら亡き妃の忘れ形見である姫を掌中の珠のごとく慈しんでいた。姫もまた父王を慕っていたけれども、一国の主人である王には娘と親しむ時間などほとんどない。せめて食事が一緒になればまだ良い方で、不測の事態が起これば一日中会えない時すらあった。
それでも姫が四つの時までは姫の祖母─先代のトロデーン女王が姫を可愛がっていた。息子が成人すると同時に退位して気楽な隠居生活を送っていた先の女王は、漸く授かった孫娘を目の中に入れても痛くない程可愛がりつつもトロデーン王女として恥ずかしからぬように躾を施した。それは単にいずれトロデーンの国主になるであろうミーティア姫が女王として困らぬように、ということだけでなく、かつての約束を果たすための布石でもあったのである。
先のトロデーン女王は若かりし頃、西の大陸にあるサザンビーク王家の王子と恋に落ちたことがあった。身分違いということもなくすんなり婚姻が成立するかと思われたが、当時両国は小さな島の領有を巡って険悪な状態にあり(それ以前に両国国王の間に感情的な確執があったらしいが)婚姻による同盟など思いも寄らぬことだった。そのため二人は両国の国王の手によって仲を引き裂かれ、それぞれ世継ぎを得るために結婚させられたのである。
二人は別れ際に、
「いつか必ず両国の血を一つに」
と誓っていた。しかし子の代では両国には男子しか生まれず、その約束は次代へと持ち越された。そして巡り合わせのよいことにサザンビークには王子が、トロデーンには王女が生まれたのである。王族同士の政略結婚に年齢などは考慮されないが、歳が近いに越したことはない。二人はほぼ同じ年頃でもあるということでトロデーンの先の女王は欣喜雀躍として婚約を申し入れたのである。
かつてとは状況が異なっており、二つの大国の間には特に不穏な要素もなかった。サザンビーク王もこの縁組を了承し、ミーティア姫は揺り籠の中で婚約することとなったのである。
「今日はどんな曲を弾くのかしら」
その声にメイドははっと現実に引き戻された。姫の世話の手抜きをトロデ王は決して許さない。姫を溺愛する父王は自ら教育に当たれない分、周囲の者にその旨厳しく申し渡していた。
「大国の王位継承者の教育を疎かにしてはならぬ。そのような行為をした者は即刻暇を出す」
と。
「楽しい曲だとよろしゅうございますね」
何気ない風を装いながら答える。
「ええ。楽しみよ。うまく弾けるようになったら、聞いてちょうだいね」
と姫は花にも喩えられる可愛らしい笑顔を向けた。子供らしいその無邪気な様子を見るにつけ、ミーティア姫自身は全く気付かずに内包している悲しみに思い当たってメイドは物悲しくなるのだった。

           ※          ※          ※

天気の悪い日はテラスにすら出ることはできない。ミーティア姫は恨めし気な顔で窓越しに外を眺め遣った。
日々の日課である散歩が特に好きという訳ではなかった。むしろ嫌いだったと言ってもよい。いくら整備されているとはいえ、外を歩けばドレスが汚れる。冷たい風やじりじりと照りつける日射しもある。散歩の度に服を着替え、帽子を被ってメイドや警備の近衛兵をぞろぞろと従えて歩かなければならない。綺麗な花を見ることは好きだったが、長く立ち止まればその分周りの大人たちの仕事の邪魔になってしまう。それに花ならば摘み取って部屋に飾ればよい、となれば自然に外へ行こうという気は薄れてしまうのだった。
一部の大人たちは躍起になって姫を外に連れ出そうとした。室内だけで過ごすことは子供の身体には勿論の事、心の成長にもよくない。風邪を引きやすいのは身体を鍛えていないからだ、と。
実際姫は頻々と風邪を引いた。どこで貰ってくるのやら、何かあるとすぐ咳をして熱を出す。侍医や典医などが結核を疑う程であった。幸いにしてそれはなかったのだが。
風邪を引けば大事になる、周囲の者は自ずと過保護になっていった。散歩に出て冷たい空気に咳をすればメイドたちの手によってストールに包まれ、ちょっとでも走ったりしようものなら乳母が慌てて引き止める。
七つ、八つの子供がただ歩くだけの散歩を楽しいと思うだろうか。結果として散歩の時間は退屈でつまらないものになってしまったのである。
それでも雨降りの天気にがっかりしたのはテラスに出ることもできず、もし外を窺うことができたとしても鳥が空を飛んでいる様子を見ることができないからだった。トロデーン城は海に囲まれていたため、海鳥が餌を捕っている様子が見える。運がよければ遠くの山に棲まう鷲や鷹が上空を舞うこともある。その様子を下から見上げることが姫のささやかな楽しみだった。何が見えるのか、どんな気持ちなのかと思いを馳せながら。
(あの山の向こうには何があるのかしら?夕日の中をどこまでも飛んで行けたらどんなに素敵でしょう)
そうやって空想の世界に遊ぶ時だけは子供らしくのびのびとできるミーティア姫なのであった。





                                 2へ→

2005.1.12 初出 2006.9.9 改定









トップへ  目次へ