道の始まり1





道の始まり/eight





1.

嵐の後の朝のことだった。
港町ポルトリンク近くの海岸を一人の男が歩いている。散策という風ではない。男は岩場の陰まで隈無く目を配っていたが、ふと、アーチ形になった岩の向こう側に何か自然の物ではないような物体を見付けた。
(しめしめ)
彼は防具屋であった。色々と工夫を凝らした防具を作るため、様々な物が漂着する海岸を──特に今朝のような嵐の後に──歩くことを常としていた。もしかしたら竜のうろこのような優れた材料、あるいは遠い異国で作られる強力な防具や武具かもしれない、と期待しながら近付く。
が、
(おやおや、土左衛門のようだな)
それは明らかに人の形をしていた。昨夜は大嵐だったし、難破した船があってもおかしくはない。嵐でなくともうっかり船から落ちてそのまま溺れてしまうこともある。
実際、男はそうした遺体に何度も遭遇していた。
(ならば葬ってやろうか。ここに置いておけば魔物を呼ぶだけだ)
放置すればそれが呼び水となって魔物が暴れ出す。遺体は食い荒らされ、道行く旅人にも被害が及ぶ。
弔ってやろうとさらに近付くと、その死体は子供であることが分かった。庶民が着るようなくすんだ青の麻のチュニックにズボン、短い黒髪が男の子であることを物語る。
(気の毒になあ。親御さんも悲しかろうに)
子供はアーチ形の岩の陰に引っ掛かるようにうつ伏せに倒れていた。手を合わせた後、仰向けにしようと身体に手を掛けた時、微かな違和感を感じた。
(ん?これは?)
冷えきってはいたものの、身体にはまだ微かな温もりが残っていた。手首を取れば弱々しいながらも脈が触れる。
(これは大変だ、何とか助けてやらんと)
男は子供を抱え上げ、ポルトリンクへの道を急いだのだった。

           ※          ※          ※

男の子が目を開くと、見覚えのない天井が映った。
「気がついたかい」
聞き覚えのない声、心配そうに覗き込む人の良さそうなおばさんの顔も記憶にはない。
「ここ、どこですか…?」
ずいぶん掠れてはいたが、どうやら自分の声のようだ。ちょっとだけ安心して辺りを見回す。縄やら何に使うのかよく分からない道具がところ狭しと、けれども整然と並んでいる部屋だった。
「ポルトリンクだよ」
ポルトリンク?聞いたことのない地名に男の子は顔を顰めた。
「昨夜の嵐で事故に遭ったんだろ?お前さんは運がよかったんだよ、溺れ死んでしまわないで海岸に打ち上げられたんだから」
そうか、と男の子は納得した。思い出せないけど自分は船に乗っていて嵐に遭い、海に落ちて流れ着いたのだ、と。
「名前は言えるかい?歳は?」
意識が戻ったとなるとおばさんは矢継ぎ早に聞いてくる。
「エイト…です。八歳です」
知らない大人だし、お世話になっているのだからきちんとしようと男の子──エイトはできるだけ丁寧に答えた。
「そうかい、そうかい、エイトって言うんだね。それでエイトはどこから来たんだね?ご両親の名前は言えるかい?」
「僕…」
ふと、脳裏に何かの映像が浮かぶ。けれどもそれはあっという間に駆け抜けて消えていった。後にはただ、空白ばかりが残る。
「…分かりません」
「分からない?何も覚えていないってことかい?」
眉を顰めて問うおばさんの言葉にエイトも困惑した。できることなら答えたかったのだが。
「…はい」
おばさんは深刻そうにエイトの枕上を見遣った。するとこつこつと音がしてもう一人の人物がエイトの視界に入って来る。
「気分はどうじゃな」
優しい口調で問い掛けてきたのはかなり年老いた神父だった。齢のせいか手がわなわなと震え、同時に言葉までも震える。
「はい、大丈夫です」
「うむ、良きかな良きかな…あれ程の嵐で生き残っただけでも神のご加護というものじゃて」
「嵐…」
先程から「昨夜は嵐」と聞かされてきたが、そんな記憶はない。昨日は確か…
「痛っ!」
鋭い痛みが頭を刺す。こめかみを押さえ、蹲るエイトの額に神父が手を載せる。
「波間を漂ううち、どこかで頭を打ったのじゃろう。何も覚えておらんのはそのせいじゃな」
そこで言葉を切り、エイトの頭を撫でた。
「今日はゆっくりお休み。どうすればいいのかはそれから考えればいいことじゃ」

           ※          ※          ※

一見ネズミのような生き物が、先程エイトが助け出された海岸の辺りをうろうろしていた。大人の掌程度の大きさで、茶色の毛皮に黒い毛が鬣のように流れ、尾の先に毛がふさふさと生えている。餌でも探しているかのように時々立ち止まって辺りを見回してはまたちょこちょこと走り出す。
と、そこへ一人の男が街道から波打ち際へ下りてきた。男は波打ち際を跳ね回っているかのように見えるそのネズミに目を留めると、
「ややっ!」
と声を上げ、駆け寄った。そして辺りを注意深く見回し
「誰もいませんぜ」
とネズミに向かって囁く。するとネズミは男に向かって感謝の意を示すかのように頷き、白い煙に包まれたかと思うと、老人の姿になった。
「やっぱりグルーノ老だったんですね」
「うむ、久しぶりじゃの…っと旧交を温めあっておる場合ではないわ!お主、里からの連絡は聞いておるはずじゃな。我が孫がこの海岸に難破を装って漂着することになっておったのじゃがおらんのじゃ!」
老人─グルーノは地団駄を踏みながら喚く。
「実際昨夜はこちらもひどい嵐でして…あの小屋を出てこちらに向かった時にはもう、この海岸には誰もいなかったんですわ。砂浜には大人の足跡が一つ、残っているばかりでして」
と男は頭を掻きながら答えた。
「ど、どこに行ったか分からんのか?!」
食い付かんばかりの勢いでグルーノは詰問する。
「はっきりとは…何せ草地には足跡が残らないもので」
「よ、よし、すぐに捜し出さねば。すまんがお主、ちょっとワシに付き合ってくれんか。何しろ人界の者とは関わってならんことになっておるでな、ネズミの姿のままでは隣街まででさえ何日かかるか分からんのじゃよ」
一気にまくし立てるとグルーノは再びネズミの姿に変わった。そして「早く行こう」とばかりに男の足を突く。
「へえ、元はと言えば俺が遅れたのがいけなかったんですし」
男はネズミをポケットの中に入れてやると歩き出した。









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2005.11.18〜2005.11.24 初出 2006.8.26 改定









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