秘密のおでかけ6





6.

森の中を歩く二人の周りに夕闇がひたひたと迫ってきました。
リーザス村への関所の兵士に教えられた通り近道しようと道を逸れ丘を登っていったのですが、それが間違いの元だったのです。先を急ぐあまりエイトはよく知らない上に道のない場所を進もうとしました。けれども本当に急いで帰りたかったのなら一度トラペッタに戻って改めてトロデーンに向かうべきだったのです。案の定、二人は道を見失ってしまいました。
「ここ、どこなのかしら」
「…」
エイトは必死でした。不安そうなミーティア姫の言葉にも、答える余裕はありません。木々の隙間から何か見えないか、と目を凝らしてみてもただしんとした闇ばかり。振り仰げは梢から覘く空はもう薄紫色をしていました。茜色はもう、どこにもありません。
「くしゅん」
さわっと冷たい風が首筋を撫で、思わず姫はくしゃみをしてしまいました。人の手の入らぬ林床の落ち葉からはひんやりとした湿気が立ち上り、最早昼間の楽し気に踊る木漏れ日はどこにもありません。
「大丈夫?」
漸くエイトはミーティア姫の様子に気付きました。先を急ぐあまりつい先に進んでいたようです。慌てて姫の元へ行くと頬には血の気が無く、袖口から覘く手首はすっかり粟肌立っておりました。
「ごめんね、先に行ったりして」
「ううん」
そう答えながらも震えが止まりません。エイトは姫の肩掛けを外し、頭からすっぽりと被せてやりました。
「エイト?」
「この方が暖かいから…あのさ、渓谷に沿って行けば必ず吊り橋に行き着けると思うんだ」
姫はこくりと頷きました。今はエイトだけが頼りです。
「今日は晴れているし、星明かりがあるから多分大丈夫だと思う」
そう言いながらもエイトは不安でした。今夜は晦(つごもり)、闇夜です。満月の明るさがあれば行く先を照らしてくれたのでしょうが…
「あのね、神父様から聖水もらっていたの。これ、身体に振りかけておいたらいいんじゃないかしら」
「うん、そうだね」
それに気付いていなかった自分の迂闊さを腹立たしく思いつつもエイトはそう答えました。これで弱い魔物なら逃げて行ってくれる筈です。
「あとね、手燭もあるの」
「ごめん、灯りはつけられないんだ」
「どうして?」
「ちょっと知恵のある奴だと火のあるところにヒトがいる、って知っているんだ。だから外で火を点す時はヘンルーダとか魔物の嫌う香草を入れるんだけど…今持ってないし」
「そうなの…」
「なるべく音を立てないようにして。大声出すと魔物が寄ってくるから」
実際うなじの辺りに突き刺さるような視線を感じます。弱い魔物なのか聖水の力で近寄って来ないのが幸いですが。
「分かったわ。静かにしているわ」
ひそひそと話すと再び歩き始めました。目が慣れているせいか闇は苦になりません。でも木の洞や潅木の茂みが作る影が何者かに見えて、恐ろしくて叫んでしまいそうです。梢を吹き渡る風の音に怯え、枯れ枝を踏んでは驚いて、夜の森はそれはもう、子供にとって恐ろしいところでした。
突然の闖入者に、足元から山鳥がばさばさと飛び立つのに驚いて身を捩った時です。
「うわっ!」
エイトの足が何かぬるりとしたものを踏み付けました。その感触に足を持ち上げた途端、緑色のぶよぶよした生き物が体当たりしてきます。咄嗟に腕で顔を庇うと、それで気が済んだのかその魔物はどこかへ行ってしまいました。
「な、何?今の」
「バブルスライム踏んずけちゃったのかも」
エイトは腕を摩りながら答えました。ぶつかったところが気のせいかじんじんと痺れています。
「気を付けて行かないと」
「ええ」
エイトの腕の痺れは治まりません。それどころかどんどん痛くなって、気持ちまで悪くなってきました。
「エイト…」
時々立ち止まって腕を摩るエイトにミーティア姫が不安そうに声をかけます。
「大丈夫。もうすぐトロデーンだし」
怖がらせないように、とエイトは空元気を奮い起こしてにっこりとします。
「ほら、森が終わるよ!」
指差す先には木々が切れ、星空が覘いています。
「行こう!」
「ええ!」
具合悪いのも忘れて駆け出したのですが…
バキッ!
「うわああぁっ!」
「エイト!」
ザザザッ!ドスッ!
ちょっと先を行くエイトの身体が突然沈みました。そこは小さな崖になっていました。草が生い茂っていて分からなかったのです。姫は気を付けて覗き込みました。エイトが蹲っているようでしたが、暗くてよく見えません。
「エイト?」
姫の問い掛けにも返事はありません。どこか降りられそうな場所は、と闇を透かし見たのですがずっと崖になっています。仕方なく何かの蔓に縋って崖を降りようとしました。が、そんなことしたことがない姫です。あっという間に蔓から滑り落ちてしましました。
「いたっ」
落ちた拍子に膝をぶつけてしまいました。ちょっと覗いてみると擦り剥けて血が滲んでいます。そんなことよりエイトです。急いで駆け寄りました。
「ミー…ティア…だ…いじょう…ぶ?」
そう言うエイトの膝がぱっくり割れて、破れたズボンの隙間から血が出ているのを姫は見てしまいました。
「エイト」
「ミーティア、一人で逃げて…血が流れたから、魔物が寄ってくる…」
落ちた時に岩で膝を切ってしまったのです。聖水の加護より血の臭いの方が強く、もうすぐその生々しい臭いを嗅ぎ付けた魔物がやってくるでしょう。
「だ、駄目よそんなこと。だってエイトが食べられちゃうわ」
ミーティア姫は急いで腰に下げていた袋を取りました。確か薬草が入っていた筈です。以前、神父から貰って使う機会がなく、ずっと取っておいたものでしたが…
「ない?!」
いつの間にか袋の底がほつれていたのです。どこでそうなったのか、確かに入れておいた薬草も毒消し草もみんな落としてしまったのでした。
でも傷の手当てはしなければなりません。中にはまだ、ハンカチが残っていました。
「エイト…」
「それ、貸して」
ハンカチを受け取り、エイトは傷口をしっかり縛りました。これで何とか動けるでしょう。
「行こう」
エイトはふらつきながらも何とか立ち上がりました。足は痛いし気持ちは悪いのですが、何としても姫をトロデーンまで連れ帰らなければなりません。それに先程「お兄様になる」と言ったばかりではありませんか。兄ならこういう時ちゃんとしなければならない筈です。
「でも…」
「帰らないと」
「だって…」
夜目にもエイトの唇は紫色をしているのが分かりました。今にも倒れそうです。なのに歩き出そうとしています。お城へ帰る道も未だ分からないというのに。
そのことに思い当たったミーティア姫はへなへなと座り込んでしまいました。道は分からない、エイトは怪我してしまった、今まで気付かずにいましたが、足はもう棒のよう。お腹も空いて、寒くなってきました。
「ミーティア…歩こうよ…」
「ふえっ、ぐすっ、エイト、もう、ぐすっ、あっ、あるけない、ぐすっ」
エイトが戻ってきて手を引こうとしましたが、一度座ってしまうともう立ち上がれません。
「泣かないで、ね。ほら、もうすぐトロデーンが見えるはずだから」
慰めの言葉も耳に届かないようです。いえ、聞こえてはいるのですが、今までの疲れや恐怖やらでもう堰を切ったかのように涙が止まりません。
「だって、ぐすっ、だってもう、帰れないもん。ぐすっ、エイト、怪我しちゃっ、たし。ぐすっ、魔物に食べられ、ぐすっ、ちゃう」
「だから行こうってば。歩かなきゃ帰れないんだよ」
背負ってやりたくてもそれだけの力は残っていませんでした。ここは何とか姫自身の足で歩いてもらわなければなりません。
「ううっ、ぐすっ、もう、歩けないっ。ぐすっ」
それが甘えであることは分かっていました。エイトが姫よりもっと酷い状態であることも。でも我慢しようと思えば思う程涙が込み上げてきます。
「だってもう、道分からないもの。ぐすっ、もう、真夜中かもっ。ぐすっ、きっと、食べられちゃって、ぐすっ、誰も捜してくれないの、ぐすっ」
「ミーティア…」
本当はエイトも泣きたい気持ちでした。でも泣いてどうなるというのでしょう。今はただ、一歩でも前に進まなければ、という気持ちで一杯でした。
「泣いちゃ駄目だってば!魔物が来ちゃうよ!」
「いやっ!ぐすっ、ふえっ、ふええええええん!おと、うさまぁ!たすけて、ふえっ、たすけて、おとうさまぁーっ!」
魔物に襲われる恐怖にミーティア姫はとうとう激しく泣き出してしまいました。宥めようもなく、もう一緒に泣いてしまおうかとエイトがへたりかけたその時です。泣き声に驚いたのかポケットの中からトーポが転がり出ました。
「あっ、トーポ」
と思ったら一目散に闇の中へと走り出すではありませんか。
「どこ行くの?!そっち行っちゃ駄目だよ!」
エイトの制止も聞きません。ちょこちょこと走ってはこちらを振り返り、また走り出します。
「どうしちゃったのかしら?」
突然のトーポの行動とエイトの言葉にびっくりして姫の涙が引っ込みました。
「追い掛けなきゃ!魔物に食べられちゃう」
こうしてはいられません。姫も立ち上がり二人で追い掛けます。
薮を掻き分けた先にトーポがちょこんと座っていました。が、二人が追い付くとまたどこかへ走って行きます。ネズミの走る速さはたかが知れていますが、見通しの悪い場所を走るので中々追い付けません。
「トーポ、待ってよ。僕、もう、走れ、な…」
呼び止めようとしたエイトの言葉は引っ込みました。森は終わり、吊り橋の前に立っていたのです。星空を背にトロデーン城が建っていました。
「エイト!」
「うん!」
二人は顔を見合わせ頷きました。妙に誇らしげなトーポを拾い上げ、今までの疲れも何のその、城に向かって走り出したのでした。





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2006.1.1〜2006.2.3 初出 2006.11.5 改定










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