8.Agnus Dei
月日は流れた。
塔から落ちたエイトとミーティアの行方は依然不明のままである。あのまま海中に没したとして、遺体を引き上げることは難しい問題だった。サザンビークなどは何としても行方を掴もうと潜水夫を雇おうとしたが、皆場所を聞くなり拒絶する。どんな手馴れであっても逆巻く潮に飲み込まれ岩に叩き付けられて命すら危ういからであった。
並の場所ならばいつかは遺体が岸に打ち上げられることもあるものを、ここはそれもない。と言うのは落ち込んだ岩によって海底は複雑な地形を成し、沈んだ物は岩に引っ掛かって二度と浮き上がることはなかったからである。
エイトは移動呪文を使うことができたことから、波に飲まれる直前にどこかへ逃げた可能性も考えられていた。しかし、世界中のどの街、どの村にも二人のいた形跡はない。各地の有力者が匿っていることもあり得たが、それにしても気配すらないのである。
トロデーンはすっぱりと捜索を諦め、ミーティアを幽閉していた塔を灯台へと作り替えた。元よりミーティアは王位継承権を失っており、何の問題もない。先々代の王妹が嫁いだというどこだかの公爵家当主が新たな王位継承者となって決着していた。
問題なのはサザンビークの方だった。身分を明らかにして裁かれたため、国民の誰もがエイトが現王の兄の遺児であることを知っている。今はいい、クラビウスは国を富ませ善政を布いて国民の信頼も篤く、変わることは全く望まれていない。だが次の世代はどうなのか。
さすがのチャゴスもそこには気付いたらしい。エイトが逃亡し、ミーティア姫を奪還した揚句生死不明という事態に狼狽え、周囲の人々を手当り次第捜索に派遣した。けれども皆、手掛かりすら掴めずに帰ってくる。
業を煮やしたチャゴスにある夜、マルチェロが囁いた。
「何としても対抗する者はなく、ただ一人の王位継承者であることを明らかにしませんと。そう、何としても」
「う、うむ」
チャゴスの目が不安に歪む。そこをマルチェロは一押ししようとする。
「ですが王子の身分では制約が多く、思うように捜索もできません。もし殿下が…」
「そうだ!」
が、「王位に就けばあらゆる権力を用いて捜索できるでしょうに」という誘惑の言葉はかき消された。言おうと思っていたことを急に遮られてぽかんとしている様子にまるで気付かず、チャゴスは続けた。
「お前、探して来い。うん、そうだ。お前ならすぐに見付けられるだろ」
チャゴスの巨体が迫り、マルチェロはたじたじとなった。
「で、ですが」
「見付けるまでいちいち報告に帰って来ることはないからな。一刻も早く見付けてくれよ」
「……は」
マルチェロは呆然として声も出ず、ただ命令に従わざるを得なかったのであった。
そうやって図らずもマルチェロを追い出したチャゴスは、また弛んだ生活に戻ってしまった。 今までの勤勉さはどうやらマルチェロの態度に刺激されたものであり(この点は評価されて然るべきかもしれない)、いなくなれば元の木阿弥、といったところであろうか。
クラビウスはその点には落胆していたものの、また元のような悪意のない、平和な横着者に戻ってしまったチャゴスに一面安堵していた。以前の息子は何かに取り憑かれたかのようにどこか不自然で、親として不安だったからである。
それにこの結末にもある程度納得していた。エイトの生死が不明であるが故に政局は安定し難いかもしれない。けれどもそれ以上にその存在がチャゴスにとって鏡となり続けるだろうと考えていた。甚だしい愚行を繰り返せば「エイトを探し出して新たな王に」という声が高まる。自らの地位を守りたくば常にそつのない為政者であらねばならぬ。それは結果としてサザンビークの国益となっていくのだ。
そして私人としてはできればどこかで生きていて欲しかった。親子で暮らすというささやかな願いすら叶わなかった兄のためにも。
※ ※ ※
パルミド、牢獄亭。
「あいっかわらず怪し気な街よね」
そう言って隅のテーブルに腰掛けたのはゼシカだった。リーザス村に帰り、アルバート家の女当主となっている筈だったが、相変わらず挑発的な服を着ている。
「そう言うゼシカの姉ちゃんも変わってねえでがすよ。まあ、こういう街だからこそ、あっしが紛れていても誰にも怪しまれないんでげす」
答えるはヤンガス。彼もあまり変わっていない。
「そうよね…一番ヤンガスが危なかったんだものね」
エイトを処刑する時は黒い覆面を被っていたものの、サザンビークに処刑人として雇われる時に顔を見られている。当時は頬の傷を上手く隠していたが、最も捕まる危険が高い役回りだった。
「へっ、これくらい、大したことはねえでがす。兄貴のためなら例え火の中水の中」
ヤンガスは誇らし気だった。
「ところでククールは?まさかカジノでイカサマしているんじゃないでしょうね?」
「いや、ほら、…トロデーンに」
ゼシカの問いにややぼかした答えをする。ここの客はみな自分の会話に夢中になっていて誰も他人の話などには興味を示さないが、念には念をいれたのだろう。
「ああ、あれね。…王様っていうのも大変だわ」
納得したように頷くと一つ嘆息した。
「全くでがすよ。この前なんて『おぬし、たまにはおっさん呼びするのじゃ』ってあっしに言ったんでげす」
「ぷぷっ。トロデーンから飛んでくるつもりなのかしら」
「たまには息抜きさせてやろうってんで牢獄亭に誘ってみたんでげすがね、『絶対嫌じゃ』ってそっぽ向かれたんでがす」
「全く、トロデ王らしいわ」
笑い声に酒場の楽し気な音楽が重なる。
「そのうちトロデーンに顔出さなくっちゃ。あの帽子使えばすぐだしね」
「本当に便利でがすよ。みんな兄貴のおかげでがす」
そう言ってヤンガスはポケットの帽子をそっと撫でる。
「ほら、珍しい物を集めにあの場所に鎌を持ってよく行くんでがすが、あれがなかったらあっしなぞ足も踏み入れられなかったでがすよ」
「そうそう、ほとぼりが冷めるまで一時期御厄介になったっけ。グルーノさんも寂しいでしょうね、ずっと孫と一緒だったのに」
「あれは兄貴の決断だったんでがす。『故郷かもしれないけど、居るべき場所はここじゃない、それに迎えに行かないと』って言って」
「そうだったわよね…」
二人でここにいない人に思いを馳せる。
「…今日は揃わなかったけど、みんなで会いたいわね。いつかは」
「いつかは必ず来るでげす」
夜も更けて牢獄亭はますます盛況だった。
※ ※ ※
黄昏の光と闇に紛れるようにフードの男が部屋に滑り込む。埃に塗れ、心無しかやつれた風を見せるその男は、壁を背にして座るこの家の主に来意を告げた。
「お主はあらゆる物について占い、外したことがないとか」
外見とは裏腹に意外に若い声をしている。
「形あるものについてはな」
男は答える。と同時に全て見通すかのような鋭い眼光をフードの男─マルチェロに向けた。
「人探しだな」
「ふん、聞きしに勝る横柄な態度だな。だが、その眼力は本物のようだ。
…その通りだ、占い師ルイネロ。ある者どもの行方を追っている」
「その者の名は」
「トロデーンの前の近衛隊長、エイトとトロデーン王女ミーティア」
神頼みを嘲りつつも占いに頼る気になったのは二人の行方が全く掴めないからだった。そこへトラペッタの街に、落とし物から行方不明の者まで占って全く外したことのないという占い師がいるという噂を聞き付けたのである。
「…よかろう」
マルチェロの言葉をただ黙って聞いていたが、ルイネロは一つ頷くと目前の水晶玉に手をかざし意識を集中させる。すると玉は思わせぶりに輝き出した。マルチェロは何らかの答えが得られるに違いない、と図らずも期待した。が、漸く返ってきた答えは意に反するものだった。
「見えんな」
「何だと?よく見ろ、エイトとミーティアだ。ちゃんと捜せ、金ならいくらでも出す」
「見えんものは見えん。最早人の形を留めておらんのだろう」
きっぱり言い切るルイネロにマルチェロは激昂した。
「貸せ!私に見せろ!」
とルイネロを追い払い、自ら水晶玉を覗き込む。が、
「何だこれは!何も見えんではないか!」
水晶玉には灯火が揺らめいているばかり。その答えはにこりともせず発せられた。
「この水晶玉の力を引き出せるのはこの私一人だ。お前には到底叶わん。さあ、分かったならそこをどけ」
「ま、待て。では屍体がどこにあるのかを占え」
「先に言ったであろう、形あるものしか占えぬと。あの事については私も聞き及んでおる。何年も前のことだ。あの地は海の難所、沈んだ遺体は波に千切れ、柔らかい部分は魚の餌となり、骨も海老や蟹の住処となって海底に散っておろう。波に洗われ既に人骨の姿すら取ってはおらぬ筈」
「それでもいい、頼む」
「探し当ててどうする?お主、『この腓骨はミーティア姫のもの』と断言できるのか?よしんばそれを見せたとて他人を納得させられるとはとても思えんぞ」
「くそっ…」
そうルイネロに言われ、マルチェロは腹立ち紛れに床を蹴り付けた。そして代金を投げ付けんばかりの勢いで卓に放り出すと身を翻し部屋を出ていこうとする。
「…気を付けるがよい、怒りの酒は身を滅ぼすぞ」
ルイネロの言葉に一瞬立ち止まったがすぐに「ふん」と鼻を鳴らし出ていった。
「…今夜はユリマを使いに遣らんようにせねば。まあ、あの男に私の言葉を受け入れる余裕がありさえすれば回避できるだろうが…」
一人ごちてまた水晶玉に目を遣る。
本当はルイネロには見えていた。どこか遠い山の上、小さな家の中の炉端に一組の夫婦が寄り添うように座っている光景が。着ているものは粗末だったが、幸せそうに語らっている。ふと二人が愛おし気に見遣る先には柵に囲まれた小さな寝台があって、幼子がすやすやと眠っていた。耳を澄ませば二人の会話が遠く聞こえる。
「お城に連れて行って貰って、疲れてしまったのね。もう寝てしまったわ」
「ククールが、『くっくりゅおいちゃん』って呼ばれたってしょげてたよ」
「まだ舌が回らないんですものね…お父様も『じいじ』って呼ばれてとても喜んでいたんですって」
二人は再び顔を見合わせて微笑み合う。
「…彼らに平安を、とこしえの平安を…」
呟いてルイネロは手をかざした。と、水晶玉はあっという間に光を失いただの玉となる。部屋の中は再びほの暗い黄昏の光の中に置かれたのだった。
(了)
2005.9.9〜10.10 初出 2007.3.4 改定
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