7.Sanctus
ある朝ミーティアは、いつもにも増して塔の周囲が物々しくなっていることに気が付いた。
岬の突端に建てられた塔は三方を断崖に囲まれており、海からの侵入を阻む。さらに激しい潮流が陸を侵食し、削られた岩が海中に落ち込んでは複雑な地形を形成してますます潮の流れの予測を難しくしている。陸側には見張りの兵が置かれ、無断で近付くことはできなかった。
ここは昔から海の難所だった。それでも灯台もなく放置された状態であったのはどの定期船の航路からも外れており、通う人少なだったからである。
(私が死んだ後は灯台になるのかしら)
とミーティアは思っていた。恐らく設計者もそれを考慮したのだろう、三方の海に向かって大きく窓が取られていた。おかげでミーティアのいる場所には陽光が降り注ぎ、海景を望むことができる。その風景はかつて暮らしたトロデーン城三階テラスからの眺望に似ていた。実際高さも同じくらいだっただろう。
海側対し、陸側は窓もなくその上深い穴が穿たれているばかりだった。下との行き来はここを通じてのみ。天井に備え付けられた滑車を使い、日に一度、外界から篭に乗って食事や細々とした手回り品が届けられる。時には本や衣類に紛れて薬草や毒消し草が届けられた。名乗ってはいなかったがそれが誰からのものであるのかはミーティアにはよく分かっていた。
だが、それらの物が役に立つ日が来るのだろうか。風の噂では、大逆の判決を受けたエイトの身柄はサザンビークに送られたという。兄の遺児だからといってサザンビーク王が私情を挟むとは思えなかった。エイトの存在そのものが王位を脅かすのだとすれば、彼は速やかに処刑するに違いない。ミーティアは悲しくそう思っていた。
その朝の物々しさの理由は今日の荷物が届いた時に判明した。食事を運んでくれる侍女の腕にひっそりと喪章が巻かれていたからである。
「…今日なのね」
独り言のようにミーティアが呟くと彼女ははっと身を硬くし、躊躇った後、
「はい」
と答えた。
「そう。午前中なの?」
ミーティアの声は平静そのものだった。言葉を詰まらせたのはむしろ侍女の方だった。
「…はい。そのように…聞き及んでおります」
そして恐る恐るといった風に続ける。
「…陛下より、今日から一日中姫様のお側に上がるよう、申し付…」
「いえ、その必要はありません。ありがとう」
侍女の言葉は素早く遮られた。
「ですが」
「帰ってお父様に申し上げてください。私は決して自ら死を選んだりいたしません、と。私の命は人の手によって助けられたもの、それを粗末に扱うことはできませんから」
「かしこまりました」
侍女は一礼した。
「ですが今日だけは」
「…そうね。分かりました」
ミーティアは頷き、侍女が彼女の身の回りの世話を始める。久々に他人の手で髪を梳られてミーティアはふと、旅のことを思い出した。
旅の途中、ミーティアの鬣を結うのはエイトの役目だった。どんなに疲れていても仲間の為に宿を取った後、必ず戻ってきて身の回りの世話をしてくれる。紐を外し丁寧に梳り、結い直す。一度、
「紐が古くなりましたので…」
と新しいリボンを買ってきてくれた。リボンなんて沢山持っていたけれど木綿製のあのリボンより大切なものなんてなかった。大事にとって置こうと思っていたのに、呪いが解けて人の姿に戻った時、どこかへ消えてしまったのだった。
(あれがあったなら…)
とミーティアは思った。
(エイトを偲ぶ縁にもなったでしょうに…)
以前ならそう考えただけでも涙が零れたものだった。けれども最早何も流れ出てはこない。何もかも遠い現実のようにしか思えなかった。
身支度も済み、食事を、と思った時、急に階下が騒がしくなった。
「何事でしょう」
と二人、顔を見合わせる。侍女も何も知らないようだ。滑車が動く音がして下から誰かが昇ってくる。
「姫様!御前失礼いたします!」
そう言いながら姿を現したのはいつも見張りをしている兵士。かなり慌てている。
「どうしたのです?何かあったのですか?」
侍女の問いにもまだ落ち着きを取り戻せずにいる。
「た、隊長が、じゃなかった、えええ、エイト様、あっ、様付けもよくないんだった、あの、えと、前の近衛隊長ががが」
「どうしました?あの、水しかありませんけれど、いかが?落ち着いてゆっくり話してくださいね」
水差しの水を汲んで渡しながらもミーティアは己の血が冷たくなっていくのを感じた。
「おっ、恐れ入ります」
兵士は差し出された水を一息に飲んで、漸く落ち着きを取り戻した。
「先程サザンビークから急使が。本日処刑されることになっていたエイト隊長が逃亡した由」
「えっ」
「処刑場に竜が現れて暴れ回った隙に顔を隠した三人組に身柄を奪われたとのこと。隊長と三人組のうち二人が竜に乗って逃げ、残る一人も呪文で行方をくらませたとか」
「まあ、ではまだ行方は分からないのですね」
「そのようです」
侍女と兵士の言葉をミーティアは何も言わずただ聞いていた。傍目にはただ座っているだけに見えたかもしれない。けれどもその目の中に新たな光が宿ったことに二人は気付いていた。
※ ※ ※
エイトが逃亡して数カ月、サザンビークの追撃の手は全く緩まなかった。ミーティアの幽閉されている塔の周囲も警備が強化されている。その上、季節の変わり目で毎夜毎夜雷光が閃き霙混じりの雨が叩き付けるように降り注いでいる。強風に海も荒れて近付くことは困難だろうと思われた。
その夜も激しい風雨に見舞われ見張りの兵は苦労していた。それでも雨は少しずつ収まり始め、東の空が白んでくる。
「やれやれ、やっと夜明けだな」
「温かいスープが飲みてえよ。すっかり冷えちまった」
もうすぐ交替の時間だった。何事もなく夜が明け。休息できると思うと気も弛む。風はまだ強く、崩れた波濤から飛ぶ飛沫が顔にかかって視界を奪うことはあったが、総じてほっとした空気が流れていたことは事実だった。
だから、目立たぬ服装で西の空に残る夜闇に紛れるようにひっそりと姿を現した男の発見が遅れたのも無理のないことだったのかもしれない。
「おい、この先は立ち入り禁止だぞ」
漸く一人の兵士が気付いて制止の声を掛ける。が、男はそれに一瞥もくれず真直ぐ塔へと向かった。
「動くな!この先はトロデーン王の御名において禁足となっている。速やかに立ち去られよ。さもなくば逮捕いたす!」
それでも足を止めない男に兵士たちは槍を向けた。
「止まれ!この槍が目に入らないのか!?ただちに止まるのだ!」
漸く男は立ち止まった。そして被った黒い衣の下から塔を見上げる。
「ここに…いるんだな」
「何をいっている!」
こちらを全く気にしていない様子に兵士は苛立ちを隠せない。
「少しトロデーンの牢で頭を冷やして来い!」
「トロデーンか…でももう二度と帰れない…陛下はお許しにならないだろうから…」
男は悲し気にそう呟くとやっと兵の方に向き直った。
「ここを通してくれ」
「何だと!」
その内容に兵士は目を剥く。
「ふざけるな!そんなに通りたくば、まず我が槍を受けてからにせよ!」
「…そうか、そうだったな。いつも熱心に槍の稽古を受けていたっけ、お前。大分上達したんだろうな」
意外な男の言葉に兵士は動揺を隠せない。
「誰だ、貴様は!」
男は衣に手を掛ける。と、黒い衣が翻り、赤い異国の甲冑が未だほの暗い暁の光の元に曝された。
「見忘れたのか、この僕を。短い間だったけどよく稽古の相手したよな?」
「たっ、隊長っ!」
「通してくれ。トロデーンの兵に向ける剣はない」
「だっ、駄目です。これは主命故、通せません!」
「そうか」
かつての後輩の言葉にエイトは寂し気に笑った。
「…では仕方ない。力ずくでも罷り通る!」
言葉よりも速く背負われた剣が抜かれる。瞠目する間もなく間合いを詰められ、咄嗟に槍身で斬撃を受けるのが精一杯。
「言った筈だ、敵から目を離すなって。間合いを詰められても動揺するな。鐓(いしづき)で相手の武器を叩き落とすんだ」
エイトはそう言いながらも斬撃を加える。兵士にその助言を実行させる暇も与えない。兵士は必死で回避し、身体が離れた隙を突いて槍を繰り出したが、剣の柄で槍身を殴られて取り落とす。その途端、エイトの足が槍を蹴り飛ばし、遠くへ転がって行ってしまった。
「…次!」
衝撃に痺れる手を庇って退く兵を後目にエイトが叫ぶ。為す術なく遠巻きに見ているしかなかった兵たちが及び腰になった。
「どうした?僕が兵士になった頃は『次』と言われて出て行かない奴は腰抜け扱いされてたぞ。呪文は使わない。さあ、かかって来い!」
そこまで言われては兵士たちも立つ瀬がない。エイトよりやや年長の兵士が進み出る。
「久しいな、エイト」
「お久しゅうございます」
エイトも目礼する。かつて先輩だった彼はエイトにとっての目標であった。
「お相手願おう。いざ!」
互いの剣がぶつかり合う。かつてエイトは三本に一本取れるか取れないかぐらいの腕前だった。技量の未熟さもさることながら彼の動きは訓練された正規のものだけではなく、我流も混ざっていて次の動きが読み難かったのである。
だがしかし、旅の間鍛え抜かれたエイトの身体は容易くそれを見切っていた。振り下ろされる剣を切先で受け流し、峯で柄から掌分くらいの場所を殴りつける。剣は高く澄んだ音を立てて折れ飛んだ。
すると一人では適わないと見て取ったか若い兵士が二人掛かりで左右同時に斬り掛かる。が、エイトは素早く身を引いた。勢い余った二人の剣が互いの身体を斬らんとしたその時、エイトの剣が一人の剣を叩き落とし、返す峯がもう一人の胴を薙ぐ。
「二人同時で斬り掛かるのに正対する奴がいるか。躱されたら味方の剣で怪我するって言っただろう」
語尾に秋水のごとき剣光が閃く。動作は澱みなく、足取り軽く無人の境を行くかのようにエイトは塔へと近付いて行った。
しかし塔内には難問が待ち構えていた。内部はほぼがらんどうで階段や梯子はなく、ミーティアのいる最上部へは篭に乗って釣り上げて貰わなければならない。しかしそれはエイト一人では無理な話だった。扉を閉ざして追っ手をしばし足止めさせたエイトは考え込んでいたが、滑車からぶら下がる二本の縄を一緒に掴んでよじ登り始めた。縄を片方だけ持てば滑車から抜け落ちてしまう。壁面は腕のいい石工が組んだのか手を掛ける隙間もなかったから、これしかなかったのである。
「エイト!」
騒ぎに気付いたミーティアの声が上から降り注ぎ、エイトの心を勇気づける。ちょっとだけ上を見遣って、さらに登り続けた。
半分まで登ったところで漸く扉が開かれた。兵たちは皆エイトの姿に唖然としたが、すぐに後を追ってよじ登り始める。どうしようかとエイトが考えた時、鼻先をかすめて何かが落ちていった。
「うわっ!…げほげほっ!」
下で何か砕ける音がしたかと思うと叫び声と共に咳き込む音が上がる。見下ろせば白い粉のような物がもうもうと立ち込めていた。
「他の人は登らせないわ!」
見上げればミーティアの手には何か握られている。
「白粉壷よ。お化粧道具なんて使わないもの。これも投げちゃうわ!」
続いて落とされるは頬紅の壷。地に落ちて赤い粉が塔内にぶちまけられる。
「今のうちに!」
「ありがとう、ミーティア!」
その後も香水瓶やら眉墨やらが盛大に投げ落とされる中、エイトはミーティアの待つ最上部へと登っていった。
※ ※ ※
懐かしいエイトの手が現れる。続いて腕が。兜に覆われた頭が覘き、勢いを付けて上半身が一気に姿を現した。片足が床に乗り、もう一方もしかと最上階に辿り着く。
その様子をミーティアは何か恐ろしい物でも見るかのように呆然と見ていた。一目なりとも逢いたい、伝えたいこともたくさんあった筈だった。なのに言葉は身体の中を巡るばかりで表に出ては来られない。
「エ、イ、ト…?」
漸く振り絞るようにして出された声に、登ってきた縄を下に落としていたエイトが振り返る。
「ミーティア」
「エイト」
これは本当に起こりつつある出来事なのだろうか。目の前にいる者は本当にエイトなのだろうか、と。が、その途端エイトは片膝を突いた。
「エイト?」
「申し訳ございませんでした」
「えっ」
「あなたの輝かしい人生を奪い、汚した罪は重く、一生掛けても償い切れないものです。赦しを乞うことすらおこがましいことだと承知しております」
頭を横に振り続けるミーティアだったが、それには構わずエイトは続けた。
「どうすればいいのか、ずっと考えてきました。でも僕の乏しい知識ではこれ以上のことは思い付かなかった。
僕の身を、あなたに委ねます。どうかその手で裁いてください」
エイトの目は真剣だった。
「では」
長い沈黙の後、ミーティアが口を開く。
「その身を以て私に教えてください、愛というものを。いつまでも私の傍にいてください。死が私たち二人を分かつその日まで」
重々しく告げられるその言葉の内容にエイトは目を見開いた。
「ミーティア」
「もう二度と、自分一人で何もかも背負おうとしないで。私もその半分を分かちます。
これが私の裁きです」
「ミーティア!」
「立って」
信じられないといった顔でエイトが立ち上がる。
「私の半身となって私と共に在ってください。私に等しい者はエイト、あなたしかおりません」
「…僕は」
エイトが一歩近付く。
「トロデーン王女であり続けるよりもあなたの妻として生きていきたい。エイト、あなたが私を助けてくれたように私もあなたを助けます。だから」
言葉の最後はエイトの胸の中に消えた。硬い甲冑の下に息づくエイトの身体から鼓動が伝わる。
「あなたの存在そのものが僕の希望だった。これから先もそう在り続けてくれるんだね」
「ええ、そうよ」
「もう二度とトロデーンに帰れないよ」
「エイトのいるところがミーティアの居場所よ」
「サザンビークからも追われているんだよ」
「一緒に逃げるわ。言ったことあったでしょ?『どこまででも乗せて行くわ』って」
「ミーティア」
ミーティアが顔を挙げると真摯で優しい目をしたエイトがあった。
「私エイトは病める時も健やかなる時もいついかなる時もあなたの良き夫であり続けることを誓います」
エイトがミーティアの目をひたと見詰めながら誓う。
「私ミーティアは富める時も貧しき時もいついかなる時もあなたの良き妻であり続けることを誓います」
エイトの目を見詰めその言葉を発しているうちにミーティアはふと、自分の魂がエイトの魂と一つに重なっていくように感じた。奥深いどこかで何かが強く結び合った、と。
引き合う心に導かれるかのように二人の顔が近付き、唇が重なる。魂を強く結び合わせるかのように。
※ ※ ※
長い口づけの後どちらともなく唇を離すと冷たい外の空気が流れ込む。同時に階下の物音も二人の耳に届き始めた。
「何かしら。縄を落としたらもう昇れない筈よね」
「梯子でも渡すつもりじゃないかな」
確かに塔内は何もないが、上手く梯子を渡せば踊り場となるように小さな足場が所々に設けられているのにエイトは気付いていた。
「…いきましょう」
「…そうだね。行こう、二人で」
もう一度唇を重ね合う。離れた時、エイトは既に戦う顔になっていた。
「もう一回足止めしてもらえるかな。僕は窓を開けるから」
ミーティアは頷き、連絡孔に走って行った。エイトは窓に近付く。鎧戸がないので嵐にも耐え得るよう分厚いガラスが嵌殺しになっていた。けれども窓の上部三分の一は突出しになっていて開くことができる。部屋のこちら側に倒すように金具が付いていた。
「外せば何とか出られるかな」
そう呟くとエイトは金具に指を掛けた。釘がしっかり打ち込まれていて苦労したが、引き剥がす。窓枠ごと外すと強い潮風が部屋に流れ込んだ。
椅子を窓枠に押し付けてエイトは上に乗った。何とか外に出ることができそうだ。が、風が強く、さらに波も高い。時折やって来る高い波がここまで届きそうだった。
「ミーティア」
手招きして胴を留める紐を解く。
「もう上がって来るわ」
ミーティアの言葉に頷き、身体を椅子の上に引き上げた。抱き寄せて紐で互いを繋ぎ合う。
「エイト?」
「離れ離れになりたくないから…塔から出ないと移動呪文、使えないんだ」
怯えさせないよう極力穏やかな口調で言う。が、言外の意味をミーティアは汲み取った。
「分かったわ…信じています」
そう言ってエイトの頚に腕を廻す。ミーティアの言葉を胸に刻み、エイトは窓の外に身を乗り出した。
「待て!動くな!」
丁度最上階に着いた兵士が慌てて二人に駆け寄ろうとした。が、その瞬間突風が吹き付けて平衡を失ったかのように窓の外に落ちる。そこへ一際高い波が打ち寄せ二人を飲み込んだ。
「落ちた!」
「落ちたぞ!」
「引き上げろ!まだ間に合う筈だ!」
塔外の兵士たちもうろたえ騒ぐ。海中に没したと思われる二人を探るべく竿を差す。
懸命の捜索が続けられた。だがしかし、二人の遺体はついに上がらなかった。
8へ→
2005.9.9〜10.10 初出 2007.3.4 改定
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