『白鳥の姫と金獅子の騎士』
(前編)
昔々、あるところに「白鳥姫」と呼ばれる、それはそれは美しいお姫様がいらっしゃいました。
お姫様は美しいだけでなく、うっとりするような美しい声で歌を歌われました。お姫様が一度歌えば、人間はともかく、野生の鳥や動物たち、果ては魔物まで聞き惚れるのです。その歌声は姫様の美貌と相俟って世界の隅々まで名高いものでした。
さて、遠い西の国に一人の王子様がいらっしゃいました。金髪のとても勇敢な凛々しい方で、国中の娘たちの憧れの的でしたが、王子はそういった女たちを軽くあしらうだけで歯牙にもかけておりませんでした。なぜなら、王子は噂に名高い白鳥の姫でなければ結婚しないと決めていたからです。
ある日、王子はお父様である西の国の王様に願い出ました。
「父上、私は遠い東の国にいるという白鳥姫と結婚するつもりです」
と。
王様は言いました。
「かの姫のいる国とはかつて、遺恨があった。生半可なことではあちらも承服すまい。だが、それから大分長い年月が過ぎたことも確かだ。誠意を見せればよき返事を得られるかも知れぬ」
王様の言葉に王子は考えましたが、
「分かりました。では私は身分をやつしてかの国に向かい、一介の騎士として仕えましょう。かの国のために身命を尽くして仕えれば、こちらの誠意も伝わることでしょう」
そう言って姿を変え、東の国へと向かったのでした。
さて、王子様には同じ年頃の従弟君がおりました。同じく金髪の巻き毛をふさふさと垂らし、立派な体格をしていかにも王族らしい姿をしておりましたが、実は見掛け倒しで、ちっとも勇敢ではありませんでした。
王子が姿を変えて旅立ったのをみて、従弟君は考えました。
(そんな回りくどいことをしないで、財宝をたんまり渡せばいいじゃないか。いや、いっそのことその姫君を攫ってくれば簡単だろう)
見かけは立派でしたが、腹の底まで真っ黒だった従弟君はそう考えて、こっそりごろつきどもを集めると船を仕立てて王子の後を追って東の国へと向かったのでした。
さて、白鳥の姫のいる国に辿り着いた王子は、早速姫君の父君である東の国の王様のところに行きました。
「どうか私を召し使ってください」
と。
東の国の王様は、身なりは卑しいものの立派な身のこなしの若者が現れたことに驚き、そして恐れました。もしかしたら刺客かもしれないと思ったのです。
「訳あって身分を明かすことはできませんが、身命を懸けてこの国にお仕えする所存でございます」
と言うばかりの王子に、王様はよくよく考えた末、御猟場の森番の仕事を与えることにしました。王様の鹿を下々の者が撃ったりしないように監視する役目です。広大な王様の猟場を一日中馬で歩き回るためかなりの体力が要りますが、王子は馬に乗ることも森を歩くことも好きでしたので苦になりませんでした。なにしろ国にいる時はしょっちゅう狩に出ていたのですから。
そんなある日のこと、森の向こうから悲鳴が聞こえてきました。王子が急いでそちらに向かうと、泉のほとりに立ちすくむ、数人の美しいドレスをまとった貴婦人たちと、棒立ちになって今にも逃げ出しそうな馬たち、そして頭を下げ、今にも襲い掛かろうとしている大鹿がいたのです。王子は一瞬のうちにそれらを見とめると鹿の前に馬を躍らせました。鹿が不意を突かれて怯んだ隙に馬から身を乗り出して角をむんずと掴み、えいとばかりに放り投げたのです。立ち木にぶつかってひっくり返った鹿はしばらく目を白黒させていましたが、そのうちひょいひょいと逃げていってしまいました。
「お怪我はございませんか」
鹿の気配が完全に消えてから王子が馬を下りて振り返ると、貴婦人の中の一人と視線がぶつかりました。美しく、優しい中にどこか強い光を湛えたその眼差しに、王子は言葉も交わさぬうちから、
(この方こそかの姫君に違いない)
と確信しました。それほどその方は群を抜いて気高く、美しかったのでした。
「危ないところをお助けくださり、ありがとう存じます」
お付きの者たちが呆然としている中、その美しい姫君(まさに彼女こそ白鳥姫でした)が口を開きました。その声の美しいことといったら、まるで真珠の珠を連ねたような響きです。
「そなたの名はなんと」
「名乗る程の者ではございません」
王子は即座に答えました。もとよりここで出自を明かすつもりはありません。
「名前がなくてはお礼することができません」
「では、どうぞお好きなようにお呼びくださいますよう。姫君にこそ、新しく名付けられましょう」
一見ただの森番のように見える兵士が王族のような立派な言葉遣いをしたことに白鳥姫は内心とても驚きました。
「では」
しばらく無言のまま見つめ合った後、白鳥の姫君が言いました。
「そなたの勇敢さとその髪から『金獅子の騎士』と呼ぶことにいたしましょう」
「この身に余る栄誉でございます」
片膝をつき、うやうやしく一礼した王子様に姫君は、
「城に戻ります。そなたは警護を」
と命じたのです。そして漸く我に返った他の貴婦人たちを連れると、金獅子の騎士となった王子を従えて城へ戻ったのでした。
それからというもの、白鳥姫のお供に金髪の騎士がつき従うことが多く見られるようになりました。騎士は目立たぬよう地味ないでたちをしておりましたが、それがかえって内から滲み出る気品を引き立ててそれは見事な様子でした。
「そなたは一体どこの者なのでしょう」
ある日の遠駆けの後、泉で一息いれた姫君は誰に問うともなく呟きました。泉には白鳥姫の他、王子様である騎士以外には誰もおりません。王子はともかく、姫も素晴らしい馬の乗り手で誰も付いて来られないのです。
「とても並の者とは思えません。城においでになる各国の王子様や公子様にもそなたに並ぶ者はいらっしゃいませんでした」
姫は隣の騎士を見つめました。一見ほっそりと見えますが、火照った身体を冷ますためか襟が寛げられて意外にがっしりした胸元が覗いております。ふと、あまり見つめ続けることが恥ずかしくなって姫は目を逸らしました。
「私は…」
王子は口籠りました。自分の生まれを明かし、想いを伝えてしまいたいという思いと、その時は未だ来ていないと押し止める考えがせめぎ合って心が引き裂かれそうになりました。
「白鳥の姫君、今こそ申し上げましょう」
長い沈黙の後、漸く意を決した王子は口を開きました。
「私は、あなた様に名づけられた者。金獅子の騎士でございます。ですが生国では別の名で呼ばれておりました。
私は、大海を越え遥か西の国の一の王子。あなた様をお慕い申し上げる余りこうして身をやつして参りました。
お父君であられる国王陛下が我が国を憎んでいらっしゃることは十分承知しております。あなた様も同じくされるかと思います。それ、と仰るのならば、我が名、我が国を捨てましょう。姫君のために、新たな者に生まれ変わりましょう」
「そのようなことを軽々しく仰らないでくださいませ」
姫君は激しい口調で王子を遮りました。
「一の王子、と仰るからには世継の王子でいらっしゃるのでしょう。そのような身でありながらどうしてここにいらっしゃったのです。王家や民を思えばその名、その国をお捨てになるなんてどうして言えましょう。もう二度とそのようなことを仰ってはなりませぬ」
「返す言葉もございません」
姫の言葉に王子は項垂れました。確かに両親や民たちに対して何の分別もなかったと思ったのです。それに姫が顔を背けたのを見て、やはり自分は疎ましく思われていると思いました。
「ですが…」
なのでその後姫が顔をあちらに向けながら小さな声で付け足した言葉に王子は目を見張りました。
「どうしてあなた様を憎むことがありましょう…」
「姫」
「あなた様を憎むことなどできませぬ。この身が震えるほど慕う方を」
「姫!」
思わぬ言葉に王子は姫の肩を抱き寄せていました。
「ずっとお慕い申し上げておりました。初めてお会いしたその時から」
「もう何も仰いますな」
腕の中でなおも言い募ろうとする姫に王子は短くそう言って、唇を重ねながら草の上に倒れ込みました。そうして二人の身体の下で潰れる草と花の匂いの立ち上る中、何度も何度も口づけを交し合ったのでした。
「国王陛下に正式に申し込みます。私の身分を証し、あなたを妃として迎える、と」
城へ戻る道すがら、王子は姫に言いました。
「はい」
白鳥姫は輝くような笑顔を王子に向けました。その眼も眩むような美しさに、王子は一瞬見蕩れてしまったのです。
突然木立の奥から矢が飛んできました。風を切る音に反応して王子は矢を切り飛ばそうとしましたが間に合わず、矢はぐさりと胸の真ん中に突き刺さり、王子はどうとばかりに馬から落ちました。
「王子様!」
あまりの出来事になす術もなくある白鳥姫に、王子と同じような金髪の男が近付いてきました。
「ごきげんよう、白鳥の姫」
にやにやとしながら一礼した男を姫は睨みつけました。
「何ということを。─そなた、何者です」
姫の視線にも動じることなく、男は茂みから現れた覆面の男たちに、
「全て終わるまで片付けておけ」
と顎をしゃくって、意識を失ったままの王子をどこへともなく連れ去らせました。
「おやめなさい!その方を連れていかないで!」
「おや、そのようなことを言っていいのですか」
馬で追いかけようとした姫君の前に男は立ち塞がりました。
「あなた様次第であの者の命とこの国の命運が左右されるのですぞ。軽率な行動は慎まれた方がよろしいのでは」
姫はぐっと詰まり、手にしていた馬用の鞭を握り締めました。
「…名乗りが済んでおりませんでしたね。私は西の国の公子。あの者の従弟です。今となっては我が国の世継でしょうなあ。あなた様を我が妃とするためにこの国まで遥々やって参りました。いや難儀な旅でしたよ」
そう言ってわざとらしく首を鳴らしました。
「そなたに用はありません」
「おっと」
姫君は隙を見て王子の後を追いかけようとしましたが、王子の従弟を名乗る男は素早く剣を突きつけてきて行かせません。
「先程申し上げたでしょう。あの者の命だけではなく、この国の命運も懸っていると。あなた様さえおとなしく言うことを聞きさえすれば、誰もが幸せになるのですよ。聡明でいらっしゃる姫君にはよくご理解いただけますでしょうね」
「─そなたの望みは何なのです」
歯を食いしばりつつも姫はきっと男を睨みました。
「おお怖い。せっかくのお顔が台無しでございますよ。
─そうですな、さし当たってはあなた様、とだけ申し上げておきましょうか。あの小憎たらしい従兄の鼻先からあなた様を奪ったら、どんなに楽しいことでしょう」
「それだけのために人を殺めるなど…」
「殺める?言葉を慎んでいただきたいですな。まだ殺してはおりませんよ。まずは恙無くあなた様との婚姻を済ますためにもあの男は必要なのです。もちろん、あなた様もね」
そう言って従弟は不穏な笑みを浮かべました。従弟でありながら王子とは全く違って邪悪さしか感じられないその顔に、姫君は背筋に冷たいものが走るのを覚えたのでした。
(続く)
2008.7.31 初出
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