道の交わるところ2




2.

「男の子が目を覚ました」とのメイド長の報らせに、神父は急いで病室に向かった。戸口からそっと部屋の中の様子を窺うと、男の子は炉の側の椅子に座って、ネズミを抱いたままうつらうつらしている。が、ネズミはこちらの視線を感じたのか素早く物陰に隠れてしまった。
「あれ、また寝てしまったみたいだね」
メイド長が側に寄る。
「こんなところで寝てしまったら、また風邪がぶり返してしまうのに」
と言いながら抱え上げると寝床へ運んでやった。
「しかし気の毒なくらい痩せて…私でも楽々運べるんだから相当なものですよ」
「まあ、三日間何も食べていないのですし。それに行き倒れていたということはそれまで碌な物を食べていないのでしょう」
「本当に気の毒にねえ…一体親御さんは何をしているのやら。自分の子供を放り出して」
枕元であれこれ話しているうち、少年の目が開いた。メイド長が話し掛ける。
「目が覚めたかい。あんなところでうたた寝してはいけないよ。また風邪が振り返してしまうじゃないか」
「すみません」
そう言いながら少年は寝床の上に起き上がり、頭を下げた。
「今はそこにおいで。無理して起きなくていいからね」
メイド長は手際よくクッションを積んで背中に当ててやった。
「これで起きていられるだろうね…お腹は空いているかい」
と言われた途端、お腹が鳴って少年は顔を赤らめた。
「空いているようだね。じゃあお粥をあげようね」
そう言って出された器にはごく薄い麩(ふすま)の粥が入っている。
「あんたはもうずっと何も食べていないんだよ。すぐに固い物を食べたら死んでしまうよ」
不思議そうに碗の中を見る少年にメイド長が諭してやると、
「いただきます」
と礼儀正しく答えてお粥、というよりは重湯を啜った。その様子を物陰からネズミが窺っている。
「トーポ」
と呼ぶとネズミは駆けてきて少年の横にちょんと座った。
「あんたのネズミかい?随分懐いているんだねえ。寝ている間もずっとあんたの側を離れなかったんだよ」
珍しそうに言われ、少年はやや表情を緩めトーポの顔を覗き込んだ。
「そうなの?」
「チュ」
「あんたの手からでないと駄目なのかねえ、餌も食べてくれないしどうしたものか困っていたんだよ。ほら、ビスケットの残りがあるから、おやりよ」
メイド長が前掛けのポケットからやや堅くなったビスケットを出してやる。
「ありがとうございます」
だがしかし、人に対する時の顔は強張っていた。人の好意に甘えまいとするかのように。
「ところであなたの名前を聞いていなかったですね」
トーポにビスケットの欠片を与えている少年に、今まで黙っていた神父が話し掛けた。
「…エイト、です」
少年の顔がさらに強張る。
「ああ、そんなに緊張しなくてもいいのですよ。何もあなたをどうこうしようという訳ではないのですからね」
少年─エイトの緊張を和らげようと神父は努めて穏やかな調子で話し掛ける。
「見たところお一人のようですが、他の人は?」
エイトは黙って頭を振った。
「ずっと?」
「あの、トーポが」
「ああ、トーポですね。お友達ですか?」
「はい」
「とても賢いネズミのようですね。あなたが倒れていた時、頚を温めていたんだそうですよ」
神父は優しい目でネズミを見遣った。
「でも他に誰もいなかったのですか。お父さんやお母さんは」
エイトは頚を横に振ると俯いてしまった。
「あの」
蚊の鳴くような小さな声で続ける。
「何も覚えていないんです」
「何も?」
「はい。あの、海でそうなんして、ポルト…なんとかっていう街の近くで助けてもらったんです」
「あれまあ」
メイド長の相槌に促され、ぽつぽつとながらエイトはここに来るまでの話を他の人の憶測も交えながら話した。微かな違和感を抱きながら。けれどもエイトにはそれが何なのか言葉にすることができず、結局語られず終いとなってしまった。
話が終わると、案の定大人二人は顔を見合わせた。
「あの…僕、もう治ったからここを出ていかないと」
やっぱり、と思いエイトが怖ず怖ずと付け加えた。その途端、
「何言ってんだよ、身寄りのない子供をそのまま放り出すもんかね」
とメイド長に一喝される。
「左様。ここに辿り着いたのも神の思し召しでしょう。それを追い出すようなことはいたしません。どうするにせよ、きちんと身の振り方を考えねば」
と神父も頷きながら言う。
「ここで働きたいっていうんだったら、歓迎するよ。下働きの者が足りなくてね…でもまずぼうやが助けられた街に連絡しないと。ご両親の消息が届いているかもしれないし」
「そうですな。それまではゆっくり身体を休めておきなさい。随分弱っているんですよ。まだ治っていないのです」


二日後、ポルトリンクへ遣った使いが帰ってきて、エイトの語った話の内容が裏打ちされた。
どうやら嵐の海に投げ出されて記憶を失い、本当に自分の名前程度しか覚えていないらしい。その後も何の音沙汰もないため多分両親もその時亡くなったのではないか、と。
城の内部に素姓の知れない者を置く訳にはいかない。それがもし盗賊や刺客の手引きだったら大変なことになるため身元の確認は厳しく、その上誰か貴族の紹介が必要だった。
普通ならば身寄りもなく素姓の知れないエイトが働くことなど不可能に近いのだが、運の良いことに拾われた時に馬車に乗っていた近従―彼は某伯爵家の五男だった―が身元保証人になってくれたのである。恐らくあの時に心ならずも冷たい台詞を言わざるを得なかったことが、自分の中で引っ掛かっていたのだろう。

           ※          ※          ※

元気になったエイトはめでたくトロデーン城で働くこととなった。朝から晩まで細々とした雑用をこなさなければならないが、衣食住の心配が無くなったことは大きい。城内で働く者が見苦しい形をしていては王家の威信に関わる。エイトはこざっぱりとしたチュニックとズボン、その替えが与えられた。食事も、豆と野菜のスープ、それとパンとチーズのような簡素なものであったが、ちゃんと一日に三度出される。決まった寝床があって、雨風に曝されることも無く、何者かに追い立てられることもない。日々忙しくはあっても、自分の居場所が保証される安心のある生活によって物に怯えたように強張った顔をしていたエイトも、少しずつ表情を緩めていった。
それでもおよそ子供らしい愛嬌とは無縁だった。言い付けはきちんとこなし、よく気が回って働き者だったが、他の使用人たちの雑談には応えようとしない。笑っているところを見た者もなかった。そもそも自発的に喋らないのである。
若いメイドたちがあれこれ話し掛けて何とか身の上を聞き出そうとしていたが、それも無駄だった。ポルトリンクに流れ着いた話をすることはあったが、それ以上は首を横に振るばかり。無理はない、語りたくとも語る物を持っていなかったのだから。それにエイトは他の人と話すことで自分が記憶喪失であると再認識させられることが辛かったのである。
その日、昼食の後片付けが終わり夕食の仕度までの休憩時間にエイトが外に出たのはそんな理由もあったからだった。厨房にいれば必ず誰かに話し掛けられる。答えられない質問に困惑するのは目に見えていたから。丁度庭師が植木の剪定をしている筈である。それを手伝わせて貰おう、と。
エイトは庭師の仕事を見ることが好きだった。庭師長は話し好きな老人で、こちらが何も話さなくてもよいのも好きな理由の一つだった。
庭に出ると、城門から城への広場の植木の刈り込みが行われている。エイトは早速庭師長と話して下に落ちた枝や葉を集め出した。
と、その時である。先触れの声が聞こえてきた。その声に庭師たちは急いで物陰に引っ込む。
「どうしたの?」
一緒に近くの物置きに移動しながら、エイトは尋ねた。
「しっ、これから姫様のお散歩の時間なんだよ。我々の作業でお邪魔してはいけないから、こうして引っ込んでいるんだ」
「ふうん…」
何となく釈然としないながら、エイトはおとなしく座った。そして熊手に挟まった枝や葉を取っていると、やがてさやさやとした衣擦れの音や近衛兵の持つ武具の物々しい音がして散歩の一団が前を通りかかった。あちらからは見えないのをいいことにエイトは爪先立って様子を窺う。
一団の先頭と殿にきらびやかな制服の近衛兵がいて警護している。メイドが数人と、色とりどりの衣装を着けた貴婦人たちに囲まれて、日傘を差し掛けられ真っ白なドレスを纏った少女が歩いていた。エイトはこの城の主人、トロデ王やその娘姫に目通り適ったことはない。そのような身分ではなかったが故に。だが、誰に教わった訳でも無いが周りの様子からその少女こそこの城の王女、ミーティア姫であると知れた。
少女はおつきの人々の言葉に穏やかな微笑を以て応えていたが、エイトにはそれがどこか寂し気に見えた。王女として満ち足りた生活を送っている筈なのに。
(変なの)
あんなにたくさんの人が周りにいるのにどうして誰も気付かないのか、エイトには不思議で仕方ない。
(でも関係ないや)
ミーティア姫を楽しませるのはおつきの人々の役目。エイトの仕事ではない。身元の知れない自分が下働きならいざ知らず、王族の近くに寄ることなど思いもよらない。大体王様も姫様も嫌がるだろう、下々の者と話すことを、とエイトはひっそり思った。
香水の匂いを残して、姫の一団は前を通り過ぎて行く。エイトは目を離し、手の内の熊手の手入れを再開した。





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2005.1.29 初出 2006.9.9 改定









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