その想いの名を恋という





私が師の推薦によってトロデーン王女の音楽教師の職を得たのは二十三の時だった。幼い頃から神童と呼ばれ、各地の領主や王侯貴族の前で演奏を行ってきたが、旅また旅の生活に飽いていたこともあり老齢を理由に隠居したいという師の後任として暫くのつもりでトロデーンに落ち着くことにしたのだった。
とはいえ師のように宮廷楽団の指揮の兼任がなかったためかなりの薄給だった。各地の王侯から最高の礼を以て迎えられてきた私が飲み代のツケに困惑することになろうとは!だが厨房や軍の酒保に行けばそこそこの酒が飲めることに気付いたのと、城に内輪の客人が来た時に演奏する機会が増えたこともあって給料事情は好転した。まあ、溺れる程飲むような愚かな私ではないが。
私が教えることとなった王女は当時七歳で、ひどくおとなしく大人びた雰囲気の少女のように見えた。子供といったら大声で騒ぎ立て破壊的な遊戯に興じるばかりの存在かと思っていたため予想外ではあったが、それはありがたい思い違いだった。師の教育の賜物かピアノを弾くための基本はきちんとしており、弾くこと自体を楽しんでいる様子だった。彼女の水準に合わせた練習曲をいくつか作ってやると、嬉々として取り組みものにしていった。
ただの師と教え子というだけからもう少し親しみのある関係に移行していくのにあまり時間はかからなかった。私たちの間には音楽があり、共通の話題によって立場や年齢を超えた共感があったのである。
そうなってくると王女に対して感じた最初のイメージは事実と異なっていたと思わざるを得なかった。生来の性質は快活であり、おとなしやかに見えたのは周囲に親しく話せる者がいなかったことによるもので、また、大人ばかりに囲まれた生活によって本来持っていた活動性が阻害されているのではないかと感じるようになった。そうでなければかくも明るく伸びやかに音楽をすることなどできようか?
子供らしい稚さは残りながらも、彼女の上達は速かった。その演奏は一種独特で、聞き手に対して一切媚びることなくただ一心に自分の楽しみのためだけに弾いていた。自分が子供の時を思い出せばかなり変わっていたと思う。既に生業としてピアノを演奏していた私には、聴く側の事情を考慮する部分が常にあった。そこまで特殊でなくとも、上手に弾いて誰かに褒められたいというのが普通の人情である。それは本能ではないにせよそれに近いものであり誰しも持つものであると思っていたのだが、彼女は違ったようだ。思えば生まれた時から王女として何をしても褒め称えられる生活を送っておれば、それが当然のこととして勝ち得なければ得られないものであるとは認識されないのである。
それはそれでよいのかもしれぬ。芸術の本質を考えれば彼女の在り様の方が正しいのだろう、自分の思うまま、表現したいまま音楽をするというのは。

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城の生活というのは案外退屈で、巷で語られるような恋と冒険などというものとは程遠い。華やかな夜会なども女主人たる王后陛下が身罷られて久しく、それに次ぐ身分は王女殿下であって未だ子供の身ともなればその回数も減ろうというものである。
とはいえそれなりに機会というものはあるもので、不自由しない程度には戯れる相手もできるものだ。まあ、あまり派手に動いて口煩い輩に睨まれおもしろくないことになるのは嫌なので自重してはいる。そもそも酒も恋も芸術のために捧げられるものであってこの私に制限されるべきものではないのだが。それに貴族の娘にしてみれば輿入れ前の恋など火遊びのようなもので、ちょっとした恋の歌など弾いてやれば易々と陥落してくるものの時が来ればさっさと後腐れなく別れるものだった。
そういう意味で危険なのはむしろ人妻の方で、夫という枷がある筈なのに箍が外れたようにのめり込んで来るのには閉口した。身の危険を感じたので深入りを避けていたが、勝手に逆上せて駆け落ちを願うなど愚かにも程がある。まあ、どこぞの侯爵家の縁者だとかいう顔はいいが捻くれた性質の近衛兵にうまく押し付けることができたので助かった。その近衛兵はかなりの下種だったらしく、後々軍の物資を横領していたとかで首になったと聞いた時は心の中で快哉を叫んだものである。
人によっては教え子に手を出す者もいると聞いているがそれはなかった。友人というのとは若干違うが、歳の離れた妹のような目線での関わり合いであり、また恋愛対象として見るにはあまりに自分の好みとかけ離れていたこともあって冷静かつ健全なものであった。それに姫君の視線は他の者に注がれているとあっては。
未だ恋の何たるかを知らずとも、その者に特別な感情を持っていることは直ぐ知れた。あっという間に彼女の奏でる音は朝日にきらめく雪解けの水のように輝きに満ちた。そう、まるで生きている喜びを一心に歌うかのような。だが幸か不幸かそれに気付いたのは私だけだったようで、当の本人ですら意識しないままに月日だけが過ぎて行った。

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恋というものは人の心に内在しているものなのだろうか?
それとも他から与えられるものなのだろうか?もし内在するというのならそれはあらゆる人の心に存在しているのだろうか?
世に恋の水薬なるものが存在しているらしいが、それが生み出す恋情(のように見えるもの)は相手に対する執着であって恋ではないと聞く。だがもし互いに恋を内在した状態でそれを飲んだなら?極端な話ただの水でもよい、恋が顕在化するきっかけさえあればよいのだ。
そのようなことをつらつらと考えながら傍らでピアノを弾いている王女に目を遣った。このところは今までの輝くような踊る音は鳴りを潜め、何かを抑え込んだ不自然な無表情ともいうべき音でばかり弾いていて、少しくその心理状態を危ぶんでいた。
「何かございましたか?」
ひとしきり弾いたところで手を休め、小さく息を吐いた王女に何気ない風を装って話しかけると、一瞬肩を震わせ、
「いいえ、何も」
と小さな声で答えてきた。先日サザンビークから来た新しい教師─気取り腐っていけ好かない爺だ─と何やら揉めたらしいことは聞いていたのだが、単なる不例とは思えず更に追求した。
「ご不例でございましたらお休みになられては?」
「いいえ!…あの、本当に何でもないのです」
常になく激しい口調に驚いたが、打って変わって平静を取り繕った様子に心の中で眉を顰めた。
「姫様」
そのように心を閉ざすのはいかがなものか。心も音楽も自由であるべきものであるのに。
「何があったか存じませんが、このレッスンの時くらいはどうぞお心のままに音楽をなさいませ。音楽と心は一体であって、分かつようなことをするのは大層辛いことかと。誰も聞いてはおりません。どうかお心を偽ってまでピアノを弾かれませんよう」
「先生」
膝の上に置かれた固く握りしめた彼女の両手にはた、と涙が零れ落ちたが見ないふりをした。
「でも、心を偽ることも私にとっては大事な練習だと思うので…」
そう言い切った王女の眼は十二とは思えぬ程大人びていた。しかし私も折れることはできなかった。
「姫様」
思えばあの時は何かの霊感に打たれたのかもしれない。強い思いに突き動かされるように言葉が滔々と流れ出た。
「音楽の始まりは歌であり、神への祈りだったと聞き及んでおります。祈りであるのならば嘘偽りなきものでなければ神には届きません。歌が祈りではなくなった今であっても、心無い音がどうして他人の心を動かすことができましょうか。例えどんなに上手くあっても、そのようなものは音楽ではございません。ただの音の羅列でございます。
どうか姫様はそのようなことはなさいませぬよう。喜びなき音楽は苦痛でしかございません」
自分で話しておきながら理解してもらえるとは思っていなかったのだが、驚くべきことに彼女は一瞬目を見開いた後に頷いた。
「この先怒りや悲しみといった感情を抱くこともおありでしょうが、そういった負の感情も音にすることで解き放たれていくのです。心を閉ざしていてはその思いを深くするばかりなのでございますよ」
「先生もそのような思いを抱いて弾いていらっしゃるのですか?」
純粋な好奇心のような問いかけに少し笑った。
「さあ、どうでしょうか…ですが、いついかなる時であっても心を偽って弾いたことはございませんよ」
と答えると王女はくす、とばかりに笑った。
「そうですね、私の女官を務めてくれていたあの─」
と去年の秋頃に退官した男爵家の令嬢の名を挙げた。
「おやめになった後、随分沈んでいらしたこと、覚えておりますわ」
おっとりとした見かけによらず鋭い、と思った。誰もが王族の寵を得ようと躍起になる中で一切そんな素振りを見せず淡々と勤め上げた少年のような娘。戯言のようなバラードにはにこりともせず、真剣に取り組み足掻いていた交響曲の一節に目を輝かせた。
その時は分からなかったのだが、彼女が諸事情で城を去ってからの空虚感で気付いてしまった。あの感情の名を。
「…すべての思いは音楽の糧。いかなる結末になろうと後悔はございません。真の歌、真の祈りならば必ずや天地をも動かすと信じております故」
はぐらかした訳ではないがあまり言いたくなかったこともあってやや抽象的な答えを返したのだが、思わぬところで本質を突いたような直観があった。人の世に如何ともし難いものがあることは分かっていたが、それを超える力があるのだと確信したのはこの時だったのかもしれない。
「…はい」
神妙な顔で王女も応えた。そして改めてピアノに向き直る。置かれた指から生み出された音は憧れと愁いに溢れていた。ああ、彼女もまた子供時代を終わらせたのだな、とその時思った。天人のような喜びと輝きに満ちた狭く小さな世界から恋を知るただ人の広い世界へと降り立ったのだ、と。

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それからまた月日は流れた。
明日私はトロデーンを発つ。腰掛のつもりが早十年、後悔はないが長く居過ぎたとは思う。
在任中に書いた歌劇の上演を巡って風紀の乱れがどうこう、などという非常にくだらない横槍が入ってからその他の曲も上演し難くなったことが決定的な要因だった。しかしこの頃にはあちらこちらから高額報酬の依頼が来るようになっていたこともあり、城を離れる決意を固めたのだった。
長年の弟子だった王女は別れを惜しんで様々な物を贈ってくれ、その上危険がないように、とトロデーンからポルトリンクまでの二輪馬車と警護として近衛兵を付けてくれた。少年の様な近衛兵だったが文句は言えまい。彼らの警護対象は王とその家族のみであるのだから。
魔物除けの効果もあってか何の危険もない道中で、退屈しのぎに窓越しに少しばかり彼と話をした。王女から直々に命を受けるその兵の眼に何やら興味深いものを感じていた。
子供の頃の記憶はない、とその兵は語った。嵐の海に遭難してトロデーンに辿り着いた、とも。
「そういえば昔よく王女殿下の遊び相手をしていた方ですね」
「あの時は大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
そうだ、あの少年だった。ただただおとなしく大人の言うことを聞くばかりだった王女を活き活きとした快活な少女に変えた子供。部屋中に落書きして(楽典に私の似顔絵を描いたのは王女だった)叱りつけたこともあった。いつの頃からかその子供を見かけなくなったと思っていたのだが、軍にいたことを漸く知った。あの頃はこざっぱりとした恰好はしていたものの何の取柄もなさそうなただの庶民の子供といった雰囲気だったが、近衛の制服を着ていると中々品よく見えるというのは不思議なものだ。
「随分立派になりましたね」
その偽らざる感想に、彼は照れ臭そうに笑った。
「まだまだ未熟で恥ずかしい限りです」
これまでの経緯を考えればよくぞここまで清しく育ったものである。
「時々でいいので、以前のように王女様のピアノを聴いてやってください」
何気なく言ったつもりだったが、彼は私の言葉に硬直した。騎乗していた馬が耳を動かして注意を促し、我に返った彼は動揺を押し隠そうとしてにっこりと笑った。
「勤務に支障のない時間でしたらいつなりと」
少し遠い眼をしてさらに付け加えた。
「西の大陸に行かれることがありましたら、ひ…王女殿下をお訪ねください。きっとお喜びになるでしょうから」
「あなたは随行しないのですか?」
「僕は参りません」
その問いは酷なものだったのかも知れない。素早く答えた彼の手綱を握る拳は固く握られて白くなっていた。
「ですが王女殿下も親しくしている人が多い方が心安らかでしょうに」
「僕の剣はトロデ国王陛下に捧げたもの。王命とあれば参りますが、サザンビークへの随行員は優秀な者をさらに選んで、とのことなので僕は入らないかと」
本音を見極めたい、という性分は性質の悪いものであるとしか言いようがない。だがこれ以上の詮索はやめた方がいいだろう、という心の声に従うことにした。
「…私も各地の劇場から声が掛かっているので、ベルガラックやサザンビークに行くこともあるでしょう。再会できる日を楽しみにしております、とお伝え願えますか」
「かしこまりました」
今の遣り取りで充分である。もう何も言うまい。運よく丁度ポルトリンクに到着したこともあって、彼の意識はそちらへと向いた。


船は港を出て外海の波のうねりを感じながら進む。様々な思いが胸を去来していた。
波。波のうねり。波はどこから?大海の果て。──想い。王子と王女。禁断。恋の内在性。言葉が生まれ、消えて行く。
この地を離れることは思っていたより寂しい。馴染んだ人々との別れも。だがその代りに新しい土地で新しい音楽を作ろう。誰もが漠然と知りながら本質に切り込むことを恐れてきた、人を至高の地へも奈落へ突き落す狂気にもなるあの感情についての曲を。
──その思いの名を恋という。



                                          (終)



2014.3.29 初出




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