嵐の予感




低い雲が夜の空を流れていた。
雲の切れ間から時折覗く月は赤く、見る者を不安な気持ちにさせる。風はあったがひどく生温く、寝苦しい夜を地上にもたらしていた。
(何という色なのかしら)
トロデーン城二階、東翼のテラスに立って空を見上げていたのはこの城の王女、ミーティア姫だった。正餐後自室に戻ったものの、部屋に澱む暑苦しい空気に耐えられずここへ逃げてきたのである。
(まるで、泣いているよう)
季節外れの嵐が来るのだろう、外もまた蒸し暑かった。せっかく外に出たというのに何の涼をももたらさない。
この場所には見張りの兵はいなかった。城自体が目隠しとなって、見張りには適していなかったからである。そのためミーティアは、外の空気が吸いたくなる度にここへ来ていたのであった。
城の生活は息苦しい。慣れてはいてもただの少女として過ごせる時間をほんの一瞬でも持たなければきっと心の奥に滓が澱んでしまうことだろう。かしずかれるということはそれだけ衆目に曝されるということでもあるのだから。
このようにただでさえ制約の多く緊張を強いられる生活に加え、ミーティアは心の奥底に秘めた想いを隠そうと必死になっていた。既に婚約者がいるも同然の身、それに婚約者がいようがいなかろうが決して実ることのない想いであったが故に。
月の光が陰ったことに気付き、ミーティアは空を振り仰いだ。一際大きな黒雲が月を覆ったところだった。庭やテラスには見張りのために明かりが置かれていたのだが、それすら周囲の暗さを引き立たせるばかり。
(何て暗いの)
姫は急に身震いした。このような夜にたった一人人気のない場所にいる。大丈夫、ここは自分の城、生まれてこのかたずっとなじんできた場所だと慄く心に言い聞かせる。
(それにお父様だって)
そう、父王がいる限り、大丈夫。そう考えて一度は安堵したミーティアだったが、次の瞬間深い淵を覗いてしまった。
(もしお父様がいなくなってしまわれたら?)
王であっても生身の人間、不死身ではない。王であれ誰であれ死は等しく訪れるのだということに今更ながらミーティアは思い至った。
(どうすればいいの、何も知らないのに。自分一人ならともかく、この城この国全てのものを治めていかなければならないなんて)
周囲は暗い。生温い風が一際強く吹きつける。失火を防ぐため、見張りの兵士たちが灯火を細く絞ったのか、ますます暗くなった。この闇に怯えつつも、ミーティアは一歩もこの場を動けなかった。
(怖い、怖いわ、その時が来てしまったら、どうしていけばいいの!)
目の前にある闇への恐怖と、いつか来る一人取り残される恐怖に慄いて、足が竦む。そこの扉を開けて中に入りさえすれば明るく暖かい場所へ帰っていけるのに、分かっていても身体が動かない。
と、扉が軋んだ。
「姫様?」
エイトだった。明るい城内を背にして影になっていても、間違いようのない声と気配が姫のすぐ側に控える。
「いかがなさいましたか?もうすぐ嵐が来るようです。どうか城の中へ」
「エイト」
振り返りもせず、ミーティアは呟いた。闇の中であっても振り返って正対することが恐ろしかったから。
「はい」
ミーティアの揺れる心が伝染したかのようにエイトの声も揺れた。
「いつかは…私一人になってしまうのね。皆、私を残してどこかに行ってしまうのね」
怯えていたことを口にした途端、緊張の糸が切れて図らずも涙が零れた。誰に言うでもなく、言葉が口を吐く。
「そうよ、行ってしまうんだわ。ミーティア一人を残して」
「いいえ!」
その激しさにミーティアは思わず声の方を振り返った。
「いいえ、姫様は決してお一人になることはありません。僕がどこまででもお供いたします。姫様が望む限り、いつまでも」
「…エイト」
「世界の全てを敵にまわすことになっても、最後までお守り申し上げます」
身体が、震えた。恐怖ではなく、エイトの発した言葉の重み故に。だが、どうして受け取れよう。受け取れるものなら受け取りたかった。でも、ミーティアにはただ、口先の言葉に逃げるしかできなかった。
「…ありがとう、近衛兵さん。あなたの忠誠を心から頼もしく思っております」
震えながらもきっぱりと言い切り、身を翻そうとする。が、その途端手を取られた。
「忠誠だけで言っているとお思いですか!」
「エイト!」
言葉の中に含まれる制止の意を汲んだか、エイトは押し黙った。
「…言って、どうなるというの?」
すぐ側にいる筈なのに、エイトの表情は全く窺い知ることはできなかった。濃い闇故に。
「…どうにも」
漸く発せられた声は彼にしては珍しくどこか投げやりに感じられた。同時に手が離され、ただ気配のみでしかその存在を知ることはできなくなった。
「エイト」
「今は暗く、誰の姿も見えない…」
「エイト?」
「だったら何を言ってもいいでしょう。独り言なんだから」
ひっそりと、風の音に紛れるようにエイトの声がする。
「ずっと慕わしく想っている人がいました。でも自分の中に棲まうこの想いが何であるのか知って以来ずっと、恐ろしかった。その方とは身分が違う。その上婚約者がいらっしゃる。貴族ですらない僕が自分の心を捧げることなんて許されないんだ。
だからせめて、この剣を捧げたかった。想いを捧げてはならないのなら、せめて忠誠を」
風が吹き荒れる。雲が激しく流れ、でも未だ月の姿は見えなかった。
「…ずっと好きだった人がいました」
密やかにミーティアの声が流れた。
「身寄りのない人だったけれど、一度たりとも身分のことなんて考えたことはなかった。誰よりも親しく、誰よりも大切な人だった。その人から兵士になる、と聞かされた時、本当は反対したかった。命なんて懸けて欲しくなかったから。でも、できなかったの。何も望まないあの人の、願ったことだったから。だからせめて…」
言いかけて、ミーティアは口を閉ざした。風の湿り気がなくなった。嵐は反れたのかもしれない。空の彼方に雲の切れ間が見える。もうすぐ月の光が戻ってくるだろう。
「…これはきっと夢ね。月が出たら目が覚めるわ。何もかも、元のままに…」
言い終わると同時に、テラスに月の光が差し込んできた。凍りついたかのように動かぬままの二人を照らす。手を伸ばせば届きそうな距離にあって、でもそれは絶望的に遠かった。
「…夜も更けました。月ももう、傾いて」
漸くエイトが口を開く。いつの間に嵐は過ぎ去ったのか、指差す先に十三夜の月が何事もなかったかのように輝いている。
「そうね、戻ります」
「部屋までお供いたします」
普段と何も変らない二人だった。エイトが扉を開け、ミーティアが内に入っていく。静かに扉が閉じられた。闇の中のことは誰も見ず、誰も聞かなかった。ただ二人だけが、聞いて深く心に刻み込んだだけだった。もう二度と、想いを告げることはないだろうと思いつつ。

                                  (終)


2006.9.7 初出 






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