香りの呪縛




城は活気に溢れていた。
もうすぐあの方の十八回目の誕生日がやってくる。その準備に皆、忙しくしていた。
今年は例年にも増して盛大に執り行われるはずだった。
「この城で祝われる最後の誕生日になられるはずだからね。王様もお力が入っていらっしゃるよ」
と、同僚は言っていた。
最後の誕生日…分かっていた。分かっていたはずだった。あの方は古い約束に従っていつかは嫁ぐためにこの城を出て行ってしまうと。そして誰かの、僕以外の誰かの妻になると、頭では理解していたつもりだった。
でも実際にその現実を突き付けられると、後頭部を激しく打たれたかのような衝撃に目が眩む。それにそんな約束があろうがなかろうが、あの方はいつかどこかの王族か大貴族と結婚するに決まっている。一介の近衛兵である僕がどうしてこの国の王女にして正統な王位継承者であるあの方と結ばれることがあるだろう。そんなことはお伽話の中でしか起こらないことなのだから。
懸命に自分の心を落ち着かせようとしたけど、
「どうした?唇が真っ青じゃないか。どこか具合でも悪いのか?」
と気付かれてしまった。何と言ってその場を取り繕ったのか覚えてないけど、
「何か悪い物でも食べたんじゃないのか?具合悪いなら無理するな」
と心配される。
「大丈夫です。それよりほら、向こうに入道雲が」
と無理に微笑んで同僚の意識を逸らせ、切り抜けた。


今夜は非番だったので、夕食の後そっと兵舎を抜け出してとある場所に足を向けた。そこはかつてあの方と見つけた古い見張り場だった。何も無い小さな空間だったけどミーティアはとてもその場所が気に入っていて度々そこへ行っては遊んだものだった。
そして誰にも言ったことはなかったけど、今日は僕の誕生日でもあった。それは、ミーティアと決めたこと。あの方と初めて出会った日、誕生日も覚えていなかった僕に、
「じゃあ今日がエイトのお誕生日よ」
と言ってくれて、それからずっとその日が誕生日だった。小さい時は一緒にお祝いの真似事なんてしていたけどいつの頃からかそんなことはしなくなって─できなくなって、ただ今日が僕の誕生日だという事実だけが残っている。
何も起こりはしないと分かっている。それでもかつて一緒に遊んだ思い出の場所で誕生日の夕べを過ごしたいという感傷的な気持ちがそこへと足を向けさせた。
使われていない通路を抜けて最後の扉を開けると、涼しい海からの風が僕の頬を撫でた。崩れて残骸だけになった石組みにもたれて座ると、昼間の熱の残りが心地よかった。
ちょうど西向きに海に面しているため、夕映えの彼方、微かに大聖堂の島の影が見える。行ったことはないけど、どんな場所かは知っている。
「法皇様がいらっしゃる場所は雲の上で、突き出した岩の上にお屋敷があるんですって」
記憶の中でミーティアが息を潜めるかのように僕に言っている。そしてその場所こそあの方の婚儀が行われる場所なのだと聞いた。王族同士の婚儀に際して法皇様直々に祝福を垂れるのだと。
皆、婚礼の供に志願している。ミーティア付きのメイドはもちろん、間近で護衛してきた近衛兵の同僚たちも。主人の晴れの姿を見たいのだろう。
でも、僕は行かない。志願しない。
それは最後に一目、あの方の姿を見たいとは思う。でも他の人のものになるミーティアを見て、平静でいられる自信がない。臣下の僕が主人の姫を恋い慕っているなんてあってはならない話なのだから。
サヴェッラから目を背け、夕闇に覆われつつある遠い水平線を見遣った。今日も海は穏やかで打ち寄せる波の音も遠く微かに聞こえるばかり。嵐の夜、地の底から轟くような音を立てて荒れ狂うものと同じ海だとはとても思えない。僕の両親と、記憶を奪った海だとは。
どんな人だったんだろう、僕の両親は。嵐の朝、助け出された僕に突き付けられた最初の現実は「両親を失った」だった。だけど両親の顔すら覚えていない僕にとっては色々な人から「海で両親を失って可哀想に」と言われても居心地の悪い思いしか感じない。
僕は、一体何者なんだろう。どこから来て、どこに行こうとしていたのか。今となってはもう知る術もない。
僕は一つ溜息を吐いて立ち上がった。せっかくの誕生日だというのにこんな辛気くさいことばかり考えている自分にうんざりしてしまったこともあったから。けれど背後から軽やかに近付く足音に僕はその場に釘付けになる。
「エイト」
振り向かなくても分かる。探すまい、その音を聞き分けようとすまいと思い、でも探さずには、追わずにはいられないミーティアの足音。
「ここにいたのね」
衣擦れとともにふんわりと花の香りが漂う。身に纏う絹、いつも使っている鈴蘭の香水、そしてミーティアの肌の匂いが混ざり合い、僕の心を掻き乱す。
いつまでも背を向けているのは失礼に当たる。僕は顔を伏せたまま振り返り、片膝を着いた。顔さえ見なければ何とかなると思ったから。けれどもドレスの裾から覘く白く華奢な足が目に飛び込んできて、結局狂おしい程の想いに囚われてしまう。
「いえ、もう戻ろうと思っていたので」
戻らなければ。二人きりになってはならないから。
「そう…」
会話が途切れ、気まずい沈黙が広がる。僕はミーティアが顔を俯けた隙に横をすり抜けようとした。
「では、これで」
「あ、待って」
ミーティアの手が僕の袖を捉える。思わず顔を上げてしまい、目が合った。
「お誕生日おめでとう。エイト」
微笑みとともに小さな包みが差し出される。
「ですが…」
受け取れない。個人的な贈り物をもらう訳には、と思い固辞しようとした。
「お願い、受け取って。嫌だったら後で捨てていいから」
声が震えていた。ミーティアの望んでいることは知っている。いつも一緒にいたい。昔のように話したり、一緒にどこかに遊びに行きたい、と。
でももう無理だ。僕が望んでいることは骨の折れんばかりにきつく抱き合い口づけを交わす、ということなのだから。
でもそれは絶対に叶わぬこと、叶ってはならぬこと。ならばせめて傷つけないように。
「お気遣いありがとうございます。謹んでお受けいたします」
受け取ろうとして一瞬手が触れ合った。しなやかで滑らかな肌の感触が僕の掌に残る。僕は思わずその手を包み込んでしまった。
「あ…」
唇から零れた吐息混じりの声の甘さ。僕の手の中にあるミーティアの手はたおやかで柔らかな感触なのになぜか痛みすら感じた。
「エイト…あの…」
「…失礼いたしました」
ミーティアが手を引き抜く。その顔は今にも泣き出しそうだった。
「ご…ごめんなさい。あの…戻ります」
そう言うと裾を翻しあの方は行ってしまった。大気にその香しい匂いだけを残して。


長い夏の日も暮れ、夜露が降り始めたので兵舎に戻った。自分の寝床に入り、先程貰った包みをこっそり開く。気が急いたせいか中身がはらりと落ちる。慌てて拾い上げたそれはバンダナだった。かつて二人でこっそりトラペッタへ行った時、変装のためにミーティアの頭に被せた真っ赤なストールと同じ色。
(ミーティア…)
懐かしさと共に後悔の念が湧き上がる。あの時をもっと大事にしておけばよかった、二人の時間。隅に小さく刺繍された僕の名を見つけた時、それは一層強まった。
もう帰らない日々を思い返してみても仕方がない。僕は人に見られることに怯えつつバンダナにそっと口づけを落とし、枕上にきちんと畳み直して置いた。もう遅かったので横たわり、目を瞑る。
と、その時ミーティアの気配を感じた。さっき貰ったバンダナからあの方の残り香が静かに匂い立つ。
(ミーティア!)
離れたくない。ずっと一緒にいたい。でもそんなことを思っても仕方ないんだ。
(ミーティア…)
この先何かの拍子に今のように思い出が甦り、その度に懐かしさで胸が締め付けられる思いをするんだろうか。それはあの方が行ってしまった後も続くんだろうか。それに僕はただ堪えていくしかないんだろうか。
ミーティア、あなたが行ってしまったら、僕の想いは一体どこへ行けばいいんだろう…

                        (終)


2005.8.2 初出 2007.1.4 改定  






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