夏の扉




真夏の強い日射しがトロデーンの庭にも降り注いでおりました。
「暑いね」
「そうね」
庭には今、エイトとミーティア姫の他、誰の人影もありません。
それもその筈、こんな暑い夏の日には、仕事は朝の早い時間から始めて、一番暑い昼下がりには休憩をとるものなのです。そして日が傾いてきて少し涼しくなってから仕事の残りを片付けるのでした。
「昨日この辺りですごくきれいなちょうちょを見たんだ」
日向を避け、涼しい木陰に座って辺りを見回しながらエイトが言いました。
「まあ、見たいわ」
姫はぱっと顔を輝かせましたが、すぐに心配そうに言い足しました。
「でも今日は来てくれるのかしら。昨日ちょっと通りかかっただけでどこかへ行ってしまっていたらどうしましょう」
「そんなことないよ」
負けずにエイトも言い返します。
「ちょうちょって毎日だいたい同じ時間に同じ場所を通るんだ。毎朝井戸に行くと同じアゲハが飛んでるよ」
「まあ、そうなの?すごいわ」
エイトの話してくれたことに姫は素直に感心しました。そして一緒になって蝶を探し始めました。


暑い夏の昼下がり、ただ蝶を待つ二人はちょっと眠くなってきました。
「来ないなあ」
「そうねえ」
手持ち無沙汰にそんな会話をしてみるものの、眠気は一向に去りません。特にエイトは夜明けと共に起きて働いていたのですから。
眠気を取り去ろうと、エイトが頭をぶんぶんと振り回した時です。視界の隅を瑠璃色の輝きがかすめて行きました。
「あっ、出た!」
「えっ、どこ」
ちょっとうとうとしかかっていた姫も慌てて立ち上がり、辺りを見回します。
「あ、あっち行っちゃう…追いかけよう!」
「ええ!」
眠気なぞどこへやら、二人は蝶を追いかけ始めました。
庭の生垣を越え、蝶はひらひらと飛んで行きます。それも風に乗って高く舞い上がるでもなく、子供二人を誘うかのように小径の隅々でその羽をきらめかせるのでした。
長い生垣の隙間をすり抜け、城壁のすぐ横まで来た時でした。
「あれ…?」
「あら…?」
エイトはふと、視界が揺らめいたように感じました。でもそれはほんの一瞬のことで、立ち止まって目をこすると何でもないように壁の石組みがあるばかりです。隣でミーティア姫も目をこすっていました。同じようにちょっと視界が揺らいだのかもしれません。
「大丈夫?」
「ええ。今ちょっとだけ変な感じだったの」
「うん、僕もちょっと変だった…あっ」
エイトの視線が、蝶が城壁を越えて行こうとしているのを見つけました。
「ちぇっ、もっと近くで見たかったのになあ」
がっかりしたような声になったのも無理はありません。たしかこの城壁の向こう側に行くにはかなりの回り道になる筈なのです。くぐり戸まで行っていたら蝶はもう、どこかへ行ってしまっているでしょう。
「あら、あそこに扉があるわ」
ところが姫が指差す先には、今までそこにあったかのような顔をした古い扉がひっそりとあったのでした。
「あれ、そんなとこまで来てたんだ…」
エイトはちょっと首を傾げました。が、すぐに、
「行こう」
と扉を開けたのでした。


扉の向こう側には何の変哲もない城壁と建物が並んでいました。王族の居住区ではないので、飾り気のなくあまり個性のない建物がただ淡々と連なっています。
「こんなところあったっけ」
エイトはちょっと不安になってきました。見たことがあるようなないような、そんな場所です。せめて人の気配でもあればいいのにそれすらありません。
「どうしましょう、ちょうちょがいなくなってしまったわ」
姫はそんなことを口にしましたが、本当はエイトの不安がうつったのか、何だか心配になっていました。ここが自分の城であるとは分かっていましたが、何となく入ってはいけないところに入り込んでしまったような気がしてきたからです。
「見失っちゃったね…」
エイトは辺りを見回しましたが、蝶の姿はどこにもありません。そしてさらにもっと気懸かりなことに気付いてしまいました。
「ミーティア」
「なあに、エイト」
「僕たち、今そこから出てきたんだよね」
二度と見たくない、というかのようにエイトがそちらを見もせず肘で指し示します。姫はその先を見遣って、はっと息を呑みました。
「ない、わ…!」
今しがた出てきた筈のくぐり戸が、なくなっているのです。ただひたすら同じような城壁の石組みが延々と連なっているだけでした。
「どうしましょう」
二人は顔を見合わせました。が、何のいい考えも浮かんできません。
「ここでじっとしててもしょうがないよ。行こう」
エイトがそう言って、二人は城壁に沿って歩き始めました。


いつかはあのくぐり戸が現れるだろうと思っていたのですが、それは甘かったようです。歩き続ける二人の前には城壁のあちら側へと抜ける、いかなる道も現れませんでした。人の気配でもあればまだよかったのかもしれませんが、生きているものの気配すら全くありません。ただひたすら蝉の鳴き声ばかりが道に響いているのでした。
「はあ」
ミーティア姫の口から思わず溜息が漏れました。
「ごめんね、僕があんなこと言わなきゃ…あんなちょうちょなんか追っかけるんじゃなかった」
「ううん、気にしないで。ミーティアも見たかったのですもの。でも…」
言いかけて、姫は言葉を飲み込みました。もし言ってしまったら、それが本当のことになってしまうような気がしたからです。
「うん…」
エイトは姫が何を言いたかったのか見当がついてしまいました。でも敢えて言わなかったのは、エイトもまたそれを口にすることで本当になってしまったら、と思ったからでした。
「少し休む?」
「…ええ」
せめて日陰を、とエイトが辺りを見回した時です。小さな女の子が建物の陰で砂を集めているのに気付きました。
「…あの子、誰かしら」
ミーティア姫も気付いてそっと囁きます。
「…うん」
エイトはぎゅっと口を引き結ぶと、その女の子に近付きました。
「あの」
恐る恐る声をかけると、女の子はこちらをちら、とは見ましたがまたすぐ砂集めの作業に戻っていきました。
「こちらで何をしていらっしゃるの?」
今度は姫がそっと話しかけました。
「お兄ちゃまのためにスープを作ってるの」
砂をせっせと集めながら、女の子が漸く返事をしてくれました。随分たくさん集めていたのでしょう、着ている服が泥んこになっています。
「まあ、そうなの。…そうだわ、このお花をスープに浮かべたらいいのではないかしら」
と、姫は先程生垣をくぐった時に服に引っかけてしまった薔薇の花を女の子に差し出しました。すると女の子はこちらを見てぱっと嬉しそうな顔になり、
「わあ、ありがとう、お姉ちゃま」
と花を受け取りました。その時エイトはふと、何かおかしいように感じました。でもそれが何なのか分かりません。心の中で首を傾げておりました。
「ここね、お花ないからお花ほしかったの」
「あなたのお兄様もきっとよろこんでくださるわ」
「うん」
女の子同士で話が弾んでおりましたが、突然、
「あっ、もう行かなきゃ」
女の子が立ち上がりました。
「気をつけてね」
「うん。お花、ありがとう」
そう言って女の子は砂と花の入った器を抱えてあちらに走っていったのでした。
「…誰だったんだろう、あの子」
女の子の姿が見えなくなってからエイトが呟きました。
「…ええ」
姫も首を傾げました。
「これからどうしま…エイト!」
指差す先に例の扉があります。
「行こう!」
「ええ!」
二人は手を繋いで扉を開きました。


扉をくぐり抜けると、いつもの庭でした。午後の日射しが傾いて、木々の作る陰が大分長く伸びています。
「ふう」
「ああ、よかった」
二人は揃って深い安堵の溜息を吐きました。
が、その時です。エイトは唐突に先程感じた違和感の正体に気付いてしまいました。
(あの女の子…影なかったよ、な)
「エイト?」
エイトの足が止まったことに気付いて、姫が顔を覗き込みます。
「大丈夫?顔色悪いわ」
「ううん、何でもない。行こ、もう午後も遅いし」
エイトは頭を振って、たった今気付いてしまったことを忘れることにしました。そしてミーティア姫と二人、城へと帰っていったのでした。


                                             (終)




2007.8.16 初出









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