『若き王子と王女の物語』





『若き王子と王女の物語』




正餐の後、僕たちは少し外を歩くことにした。ここしばらく、ミーティアの体調がよくなかったんだけど、今日はいいらしい。それでもまた具合が悪くなるといけないので庭ではなく、小さな庭─子供の時の秘密の場所だった庭─に出た。
「本当にいい夕べね」
「そうだね」
昼間の暑さは去り、清々しいそよ風が頬を撫でてくる。海も穏やかで、引き潮の微かな音だけが遠く響いていた。
「具合はどう?大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
実際顔色もよくてこの頃よりかは元気そうだ。
「風も穏やかで本当にいい気持ち」
隣でミーティアが伸びをしている。慣れているとはいえ、やっぱり王族の生活というのは窮屈で肩が凝るんだろう。そういう僕も、ミーティアと結婚してこういう生活になって改めて、結構しきたりや儀礼、仕事が多くて大変なんだって分かったんだ。確かに近衛兵として王の側に近侍していたけど、ただ見ているのと実際にするのとでは全然違う。行動の一つ一つが国の命運を左右しかねないというのはものすごい重圧だろう。それに思い至ると、いつも身震いしてしまう。あの時、自分がどんなに危険なことをしようとしていたのか、と。幸いクラビウス様─叔父上が、認めてくださったからよかったようなものの、もしかしたらやっと呪いから解放されたトロデーンを、今度は戦禍の中に陥れることになったかもしれないのだから。
「どうしたの?」
ふと気付くとミーティアが怪訝そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
「ううん、何でもないよ。ミーティアが元気そうで嬉しくてさ」
「そう?」
ちょっと首を傾げたけど、すぐ微かな微笑みを浮かべて遠く海の彼方へと目を遣った。
「本当に、夢みたい。エイトとこうしていられるなんて」
「夢じゃないよ。本当だよ」
そう答えたけど、夢かもしれないと思うことがあるのは僕の方だ。これは本当は夢で、目が覚めるとトロデーンの兵舎の硬い寝床に横たわっているんじゃないのか、と。
「座ろうか」
何だか感傷的な方向へ思考が傾いていくのを振り払い、そう声をかけた。
「そうね」
ミーティアも頷く。石造りの小さな椅子の埃を払って二人並んで腰をおろした。
思えばあの災厄から、たくさんの人たちの運命が変った。僕も、ミーティアも。閉ざされた台地のレティシアの人々は外の国々とも交易を始めた。教会は混乱から立ち直りつつある。海の魔物による害が大幅に減ったおかげで、他所の国とも交流が活発になっている。どうやらアルバート家が─つまりはゼシカが─先頭に立って頑張っているらしい。
そんなことに思いを馳せていたから、不意に聞こえたミーティアの言葉にちょっとびっくりした。
「時々ね、思うの」
「どんなこと?」
「もしあの時エイトが来てくれなかったら、どうなっていたかしら、って」
穏やかな声だったけど、その内容は…
「どうって…どうにも変らないよ。ククールやヤンガスに背中押されなくても攫いに行っただろうから」
そんなこと言わないで欲しかった。そりゃ昼間にサザンビークの勅使からちょっと不快な言いがかりをつけられたけど、でもそれは僕に対してのことだし。
「ううん。だから、もしものお話。ミーティアがサザンビークへ行ってしまったら、エイトは誰か他の人と結婚していたのかしら、って」
あれ?
「他の人って?」
もしかしてやきもち?惚けたふりして聞いてみようかな。
「例えば…ゼシカさんとか」
一瞬躊躇って、言い難そうにその名を口にする。言って、そして声にした途端、その瞳の中にいつもと違う光が揺らめいた。
「ゼシカねえ…そうだなあ…」
それが何だか物珍しくて、つい、もう少し突いてみたくなってしまった。
「確かに気心も知れているし、気は強いけど、本質的にはいい人だし…って、本当にそう思ってる?」
「お、思っているわ」
慣れない悋気なんてするから…ほら、もう涙目だよ。
「だ…だってそうしたらエイトが花嫁泥棒だとか酷いこと言われなくても済むもの」
そんなこと気にしていたんだ。嬉しかったんだけど、口から出た言葉は相反するものだった。
「それもそうかな。そうすると僕はアルバート家の当主か。悪くないかもね」
「…そう、そうよね。それに、い、今からだって遅くないわ…」
ミーティアは言いかけて上を見上げ、零れそうな涙をこらえようとする。が、その前に僕の唇がその涙を吸い取った。
「本当にそう思っているの?だったら僕を振り払ってよ。そしたらミーティアの言う通りにするから」
腕の中ではっと息を呑み、身を硬くする気配がした。
「エイト」
「もう僕が嫌なんでしょ?ほら、しっかり押して」
それでも僕の胸に手をかけて身を起こそうとしている。
「…いじわる…そんなことできないわ…だったらエイトが振り払って…」
もうおしまい、だな。本当に泣かせてしまいたくないし。
「そんなことしないよ。絶対に離れないから。もう二度と…」
あの運命の夜を思う度、そう強く思う。僕が逃げたばかりに、この城は、そしてミーティアは…
「それに」
でもまだ心の中はさっきの流れから変っていなかったらしい。次に口を吐いて出た言葉は意地悪なものだった。
「約束だからってさっさと他の人と結婚しようとしていたのはどこの誰かさんでしょう」
「だって」
「よく『大好き』って言ってくれるけど、他の人と結婚していたってそう言うんでしょ」
「言わないわ!」
腕の中のミーティアが、軽く胸を押して身体を起こし、燃えるような目で僕を見上げる。
「あの話は国と国との契約だったのよ、お祖母様のことがあったとはいえ。話はもう、個人だけのことじゃなくなっていたんですもの」
ああ、そうだった。頻繁に訪れるサザンビークからの使者の他、各地に散らばる封土の領主たちとの遣り取り、都市の代表との交渉、婚姻に際して起こりうるありとあらゆる事態に対処するため何度も何度も折衝が繰り返されていたっけ。
「ただ、この国を守りたかったの。そのためには人である前に王女でなければならなかった…」
「うん…分かってたよ…」
分かってはいたんだ、頭では。国家の前では個人の感情なんて斟酌されないって。例え人倫に悖ることであっても、国の要請なら為さねばならない時もある。それでも僕は、ミーティアにその道を行って欲しくなかった。
「これからはずっと一緒にいる。ミーティアの背負う責任を僕も一緒に背負う。いつか、僕を選んでよかったと思ってくれるように」
美しい笑顔を守ってやりたい。いつまでも。そのためならばいくらでも引き受けるよう、この国を守るために必要な汚れた部分を。
「…ありがとう」
しばらく黙って僕の顔を見つめた後、肩に頭を乗せてくれた。
「でも、もうずっとそう思っているわ。あなたを選んでよかったって」
「本当に?」
「ええ」
そう言ってちょっと躊躇った後、付け足した。
「この先生まれてくる子供たちもきっとそう思うわ。エイトがお父様でよかったって」
「子供か…」
ミーティアの言葉に動揺しかけて何とか堪えた。子供のことはあまり言わないけど、望んでいることは感じている。でも、かつて里で聞いた話では…
「生まれるのかな…」
混血の動物は普通、不稔、不妊だ。驢馬と馬を掛け合わせた騾馬や駃騠(けってい)には仔が産まれない。竜神族と人との混血は前例があったものの、次の世代が生まれるかどうかは分からないという。
『かつていた竜神族と人との混血の者は早世した』
竜神王の言葉が耳に甦る。
『竜化の際の消耗で生命を削っていたこともあって、暗黒神の軍勢に攻め込まれた折に命を落としたのだ』
と。
人と動物を比較することはできないけれど、どうなんだろう。それを思うと、怖くなる。
「人でも、魔物でもない、か…どうなのかな…」
「エイトはエイトよ」
不安に翳った僕の言葉にミーティアの優しいけどしっかりした声が重なる。
「それにちゃんと生まれるわ」
「…え?」
その言葉は妙に強く心に響いた。
「どういうこと?」
「だって、今、ここに」
と僕の手を捕って臍の辺りへと導く。薄い服地を通して微かな温もりが伝わってきた。
「いるんですもの」
耳を通じて入ってきた言葉が心に落ちるまでに数秒かかってしまった。いる?子供が?
「え、えと、こっ、子供?」
「ええ」
驚きのあまりどもってしまった僕に微笑みかけてくれた。
「本当に、嬉しかったの。ずっと望んでいたことではあったのだけれど、でもそれ以上にあなたのために、嬉しかった」
「え?」
もしかして気付かれていた?
「エイト」
ふと、真面目な雰囲気になって僕を振り仰いだ。
「あなた一人で重荷を背負わないで。ミーティアも一緒に背負うわ。だって、そのためにミーティアはいるのですもの」
「…ありがとう」
何だか泣けてきて、涙を見られたくなくて俯いた。そのまま身体を倒すとこつん、とミーティアの額と僕の額がぶつかる。その感触が何となく人間くさく思えて、どちらともなくふきだしてしまった。
「…どんな子かしら」
ひとしきり笑った後、ぽつりとミーティアが呟いた。
「絶対かわいいよ。ミーティアに似て」
そう言うと悪戯な眼をして答える。
「ミーティアはエイトに似ている方がかわいいと思うわ」
その様子はいつもと変らない。でも、その身体の内に新しい命を宿しているんだ、と思うと畏敬の念が湧き起ってくる。
「…早く会えるといいな」
「ええ」
僕の言葉にふと、ミーティアの睫毛が潤う。その様子が愛おしくてそっと抱き寄せた。
そのままずっと、感じていたかった。この先背負う、子供たちの未来に対する責任の重さを。それはひどく心地よくて懐かしく、嬉しいものだった。僕の両親もそうだったんだろうか。母上も、そうだったのかな。


夜の風に垣根のようにして植えた薔薇から芳しい香りが立ち上り、夜目にも青い矢車草が揺れる。その庭の中で僕たちはいつまでも抱き合ったままでいた。互いの温もりを気持ちよく思いながら、時々思い出したようにいつか会う子供たちのことを話し続けていた。


                                                   (終)




2006.6.28 初出









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