発端





静かな夜であった。
二階のテラスにトロデーンの王女が一人佇み、空を眺めていた。
「王女様」
ふと、背後から声がかかった。
「そろそろ風が冷たくなって参りました。部屋にお戻りになられた方がよろしいかと」
声の主はよく知っている人。星を見るのではなくて、本当はこの人に逢いたくてここで待っていた近衛兵だった。
「ありがとう、エイト。これから見張りなの?」
「はい」
「そう…もう少ししたら部屋へ戻ります。それまで一緒にいてもいいかしら?」
最大の努力を払って最後の一言を付け加えたが、若き近衛兵はただ黙って一礼を返しただけだった。
「あの、…少しお話したいのだけど」
「はい、何でしょうか、王女様」
「今は二人しかおりません。ミーティアと呼んでください」
「はい、ではミーティア様」
いつの頃からか決して名前では呼んでくれなくなってしまった大事な幼馴染み。かつては共に野原を駆け、時にはこっそりトラペッタの街へ遊びに出かけた二人だったのに、どこかぎくしゃくとした空気が二人の間に流れるようになっていた。
ミーティアは一つため息を落とし、続けた。
「どうしてもミーティアの口から伝えなければと思っていたことがあるの」
「何でしょうか」
ミーティアは改めて幼馴染みの顔を見つめた。が、彼の顔は尖塔の影になって表情は窺えなかった。
「サザンピークへの輿入れが決まったの。来年の春には式を挙げると」
一瞬語尾が震えたが最後まで言い切った。
「先日王様から直々に伺いました。心からお祝い申し上げます」
彼の返事は淡々としていて、何の感情も読み取ることはできなかった。
「あの…一緒にサザンピークに行っていただけませんか」
自分でも何とばかなことを言っているのかと泣きたくなった。こんな願いが聞き届けられようはずがないのに。
「今までのように一緒に」
「恐れながら、」
突然激しい口調でエイトはミーティアの言葉を遮った。
「僕の役目はこのトロデーン国の皆様の警護です。これから先、ミーティア様お守りするのはご夫君様、サザンピークのチャゴス様でございます」
分かっていたことだった。ちゃんと理解していたことだったが、改めて彼の口から聞くと死の宣告のように彼女の心に響いた。ミーティアは身を震わせ、顔を背けた。
「…御前、失礼いたします」
「待って」
踵を返し、立ち去りかけたその背にミーティアは叫んだ。
「それがエイトの本心なの?顔も知らないどこぞの王子と結婚することがめでたいことなの?」
怒りと悲しみに声を抑えることもできず、ミーティアは激しい口調で問い掛けた。
「ミーティア様、」
月光のなか、振り返ったエイトは初めて見る厳しい顔つきだった。
「ミーティア様はトロデーンの王女様でいらっしゃいます。この僕がどんなに…」
エイトはそこまで言いかけて一瞬躊躇い、言い直した。
「僕はただ、ミーティア様を全力でお守りするだけです」
その声はごく静かだった。にもかかわらずミーティアの心には大きく響いた。だが、何か伝えたいと思いつつも何も言うことができず、もどかしい思いでエイトに手を伸ばした瞬間、
「…姫や、どこにおるのかね。姫や…」
城内から切れ切れに自分を呼ぶ父の声が聞こえてきた。
エイトもまた、最近では見たこともないほど優しく、真剣な表情をしていたが、その声を聞いた途端にいつもの近衛兵の顔となり、
「御前、失礼いたします」
と身を翻して階段を駆け下り、図書館の中へと入っていってしまった。


ほとんど入れ違いにテラスにいそいそと父王が出てきた。
「姫や、星を見るのもいいが外は冷える。そろそろ部屋にもどって休んではどうじゃ?」
「ええ、お父様。今、まいりますわ」
そう答える自分の声が自分のものではないような気がしたが、彼女は何とか平静を装ってそう言うと父王に促されて城内へと入っていった。


その夜、トロデーン城は一瞬にして茨に覆われ、滅び去った。城の人々は呪いにかけられて生きながら茨と化していたが、王と王女、そして一人の近衛兵の行方は杳として知れない。


                                    (終)




2005.1.5 初出









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