あの時のスープ



少し空気の冷たい食事の間に、ミーティア姫がぽつんと座っておりました。恨めし気に見遣る視線の先には美味しそうなスープが湯気を上げています。食欲をそそるいい匂いに、空腹に耐えかねた姫は何度かスプーンを入れてはみたものの、一匙掬っては深い溜息を吐いてまた戻すことを繰り返していたのでした。
今もまた、目をつぶってスプーンを口元まで運んだのですが、やっぱり食べられません。
(どうしたらいいのかしら)
今日何度目かの溜息を吐いた時、給仕のための出入り口の扉が動きました。

            ※            ※            ※

事の発端は「ミーティア姫の偏食を直す」という教育係の方針でした。最近漸く減ってきてはいたのですが、それでもまだまだ食べられない物も多いため、先々のことも考えてそのようなことになったのです。
このことはもちろん、父親であるトロデ王も了解し、それを是としておりました。ですが一人娘に甘い王のこと、同席する食事の際に姫が悲しそうな顔で、
「これ、きらいなの。食べられないの」
とでも言おうものなら、
「よしよし、無理せずともよいぞ」
と甘やかしてしまい、何の効果も上がっていなかったのが実情でした。
これではいけない、と教育係は考えていたある朝、とびきり新鮮な牡蠣を手に入れたという話を料理長から聞きつけました。時期も終わろうとしている今ですが、最盛期である冬でも珍しいくらいよく太った、ぷりぷりの身をしていて、牡蠣好きなら大金を積んででも食べたい代物なのだそうです。
そういえばミーティア姫は牡蠣が嫌いだったことを教育係は思い出しました。時期が限られていて食す機会が少なかったのと、見た目から受ける印象があまり良くなかったのか完全に食わず嫌いで、一度も食べようとしなかったのです。
この栄養豊富で美味でもある食べ物が食わず嫌いとはよろしくない、と教育係は考えました。特に牡蠣は、季節には前菜として生牡蠣が饗されることが多いのです。主賓、主催となることも多いであろうミーティア姫が全く食べられないという事態は対外的にもあまり好ましくありません。
折も折、トロデ王は遠くに駐留する連隊の閲兵のために昼間は留守になることが分かっておりました。そこでこの機会に、昼餐に牡蠣を出すことにしたのです。見た目が嫌だということは分かっておりましたので、生牡蠣ではなく細かく刻んで形を分からなくし、スープの実として使うことにしました。料理長ご自慢の出汁とまろやかなクリームのおかげで、抵抗なく食せる筈だったのですが…
「これ、何のスープ?」
普段おっとりとしておりますが、嫌いなものについては妙に鋭いミーティア姫、何か自分の好きではないものが入っていそうな気配を察したようです。
「チャウダーでございます。料理長さんが腕を奮って作りましてございます」
教育係は内心ぎくりとしました。ですがそんな動揺は押し隠してにこやかに答えました。さりげなく「何のチャウダーか」については誤魔化しつつ。
「そうではないの。これ、何のチャウダーなの?」
「…牡蠣でございます」
姫の質問に答えない訳には行かず、渋々教育係は答えました。途端に姫の顔が曇ります。
「ミーティア、カキは食べられないの。下げてくださいね」
ああやっぱり、と教育係はがっかりしました。でもここで負ける訳にはいきません。
「いいえ、下げないでください。こちらはよいのであなたは下がるように」
給仕に向かってぴしりと申し付けると、
「姫様はこの牡蠣のチャウダーをお召し上がりになるのです」
と言い渡しました。
「だって、食べられないのですもの。形がこわいの。ぐちゃぐちゃになっているのですもの」
何となく頼みに思っていた給仕にも出て行かれ、教育係と二人きりになってしまった姫は涙目になってしまいました。
「形がお嫌いでいらっしゃることは存じております。細かく刻みましたので何も怖くありません。それに獲れたてですのでとろりと甘くて美味しゅうございますよ」
泣き落としには聞く耳持たず、さりとて厳しすぎては姫も怖かろうと断乎としつつも言い含めるように諭してやると、姫は恐々スープ皿に眼を遣りました。どうやら「甘い」という言葉が心を捕らえたようです。
「…食べてみます」
随分長く逡巡した挙句、漸く心を決めてミーティア姫はスプーンを取りました。それでもまだ躊躇って、そうっと器の中身を突いているうち(マナー違反ではありましたが、その件については今回だけは、と目をつぶっておりました)、もっとまずいものを見つけてしまったのです。
「どうなさいました」
ちゃんと食べられるかと目を光らせていた教育係は、姫の顔色がはっきりと変わったことに気付きました。
「何かへんなものが」
怖々指し示すスプーンの先に、牡蠣の欠片が浮かんでいます。
「ああ、牡蠣でございますね。これはいい色をしておりますこと。さぞ美味しいでしょう」
実は無類の牡蠣好きを自認する教育係はこともなげにそう言いましたが、姫の顔は一層強張りました。
「だって、だって緑色なのですもの」
育つ環境にもよるのですが、牡蠣の内臓は時折緑色をしていることがあります。栄養豊富な場所で育った牡蠣に多いので美味の証とも言えるのですが、ちょっとくすんだ緑色の、それもぐにゃっとした得体の知れないものにミーティア姫はすっかり怖気づいてしまいました。
「ほうれん草もブロッコリーも、野菜はみな緑色をしているではありませんか」
「だって、あれはきれいな緑色ですもの。これは…何だかとても悪くなっていそうだわ」
姫も必死です。何としてもこの変な緑色の物体を口にしたくないのです。
「いいえ、どこも悪くございません。それどころかちっとも生臭くなくて美味しゅうございますよ」
「でも…」
言い訳も尽きてしまい、ついにミーティア姫はスプーンを置いて俯いてしまいました。
「姫様は先程、お召し上がりになると仰いましたが」
「でも…」
「嘘を仰ってはいけません、といつも申し上げておりますが」
「うそつくつもりなんてなかったのですもの!ほんとに食べられると思って」
「姫様、『ほんとに』ではなく、『本当に』でございます。
…お召し上がりにならないのでしたら、今日の昼餐はなしということに」
「いやっ、それはだめ!」
姫は慌てました。午前中一生懸命勉強したのでお腹ぺこぺこです。それに午後、エイトと遊ぶ約束をしていました。空腹のままではとてもエイトについていけません。
「ではお召し上がりになられますよう」
「…分かったわ、食べるわ」
ミーティア姫は渋々そう答えたものの、全く以って手は動きません。
「姫様、お手が動いていらっしゃいませんね」
厳しい視線を向ける教育係にそう言われ、姫はついに癇癪を起こしてしまいました。
「だって、そんなにじろじろ見られていては食べられないのですもの!ちゃんと食べるから、出て行って!」
「…ようございます」
厳しい口調を崩さぬまま、教育係は言いました。教えるとはいえ主君であるミーティア姫に「出て行け」と命じられたら従わねばなりません。もっとも、今まで姫はそういうことはほとんどしたことがなかったのですが。
あまり強制するのもよくない、と少し妥協することにしました。
「こちらを下がりますので、どうぞゆっくりでもいいのでお召し上がりくださいませ。お召し上がりになられましたら、お声掛けくださいますよう」
「…はい」
一礼して教育係は部屋を出、姫一人が残されたのでした。

            ※            ※            ※

そうして冒頭の状況になったのです。教育係がいなくなって監視の眼はなくなったのですが、目の前の問題が片付いていないことには変わりありません。
(何か別の物のふりをしてくれたらいいのに)
ミーティア姫はしょんぼりと皿の中の牡蠣を見遣りました。こんなにも自分を困らせるこの牡蠣が段々憎たらしくなってきましたが、先程スプーンで小突いたら身が崩れて余計始末に負えなくなりそうになってしまったので、時間稼ぎにそんなこともできません。
(どうしたらいいのかしら)
空腹のミーティア姫は、段々心細くなってきました。
その時かちゃっと扉の金具の音がして、姫は思わず飛び上がりました。が、振り返って見慣れた顔を見つけ、ぱっと顔を輝かせました。
「エイト!」
「あ、ごめんね」
注意深く扉を閉めると、エイトが近寄ってきました。
「大丈夫?何か困ってるって聞いたんだ」
他に誰もいないのでエイトも普通にしゃべっていますが、本当は、
「姫様にちゃんと牡蠣を食べさせる」
という使命を帯びておりました。
いくら時間をかけてもいい、と教育係は考えておりましたが、中々そうも言ってはおられません。姫が食事を済まさない限り、それに関わる料理人、給仕人、後片付けの人、そして教育係も昼食にはありつけないのです。それを見越した使用人用の食事を作る料理人が手早く食べられるものを用意しておいて順次食べさせるようにしていたのですが、料理の責任者である料理長はもちろん、教育係も一人だけ先に昼飯を食べるというつもりは毛頭ありませんでした。もちろん、下っ端のエイトもまだ何も食べておりません。
部屋の外に出てさてどうしたものかと考えていた教育係ですが、丁度皿を下げに来たエイトを見つけ、「これは」とその役目を与えたのです。エイトとミーティア姫がとても仲の良い友だちであることは周知の事実でした。それに教育係はエイトの存在が姫に良い影響を及ぼしていると高く評価しておりました。何より姫の好き嫌いが減ってきたのもその一つで、
「エイトが作ったものなら」
とちょっとずつでも手をつけるようになっていたのです。
そこで、
「姫様のお食事の手伝いをして差し上げるように。ただし、代わりに全部食べたりしてはいけませんよ」
と言い含めて送り込んだのでした。
そんな扉の外の事情はさておき、部屋の中ではミーティア姫が牡蠣がどんなに嫌か訴えています。
「えーっ、でも、すっごくおいしいって料理長さんが言ってたよ」
エイトは疑わしげな顔をしました。記憶にある限り、エイトは牡蠣を食べたことがなかったのですが、厨房での話を聞いて食べてみたくなったのです。
「でも…でも、へんな色なの」
姫も食い下がります。
「エイトだってぜったい食べられないと思うわ」
「そんなことないよ」
姫の言葉にかちんときたエイトは言い返しました。
「料理長さんの作るスープはすっごくおいしいんだ。この前ちょっとだけ手についちゃったからこっそりなめちゃったけど、すっごくおいしかったもん。これだっておいしいに決まってるよ」
今度は姫がむっとする番です。
「じゃあ食べてみて」
「いいよ。こんなの平気だよ」
売り言葉に買い言葉でそう答えると、エイトはスープ皿を覗き込みました。そして固まりました。
「…」
確かに緑色です。それも厨房で見た生牡蠣は鮮やかな色をしていたのに、火が通ったせいかくすんだ色になっていました。
これは無理だ、とエイトは思いました。でも、
「こんなの平気だよ」
なんて言ってしまった手前、食べない訳にはまいりません。
「エイト?」
ミーティア姫は心配そうにエイトの顔を窺いました。エイトが食べるのだったら自分も食べられそうな気がしていたのに、それが食べようとしないのですからどうしようという気持ちになったのです。
「たっ、食べられるよ」
その視線を撥ね退けるようにエイトは勢いよくスプーンを皿に突っ込みました。例の緑色の物体を掬い上げ、躊躇わずに口の中に入れたのです。
「エイト!」
「…うめえ」
びっくりする姫の前で、思わずそんな言葉が漏れました。口の中に入った時に自分でも涙目になったような気がしましたが、ともかく食べ切ったことは事実です。
「何でもなかったよ。すっごくおいしかった」
ものすごく空腹だったという事実を差し引いても、本当に美味しいスープでした。でも一口食べてしまったせいで、エイトはますますお腹が空いてしまいました。
「食べちゃいなよ」
先程のエイトの食べっぷりに見ていた姫も何だか無性にお腹が空いてきました。
「え、ええ」
スープ皿からは相変わらずいい匂いが漂ってきます。お腹空いた、と思った途端、エイトと姫のお腹が同時に「ぐー」と鳴りました。
「…」
「…」
不可抗力ではあるのですが、不意打ちのこの音に二人ともちょっと恥ずかしくなりました。
「あ、いいこと思いついた」
エイトが何か思いついたようです。
「あのさ、こうしてみたらどうかな」
と牡蠣の他に具として入っていたえんどう豆をスプーンいっぱいに乗せました。緑色の豆のおかげで、確かに例の部分は目立ちません。
「はい」
そのままミーティア姫の前に差し出したのです。
「…」
こうなっては姫も食べない訳には行きません。ちょっと涙目になりながらも、エイトの差し出すスプーンをぱくっと口の中に入れました。途端に口の中いっぱいに新鮮な豆と濃厚な牡蠣の味と香りが広がります。
「…おいしい」
言葉と同時に涙がぽろっと零れましたが、安堵の涙だったのでしょう。それに実際食べてみるとエイトの言う通りとても美味しくて、エイトからスプーンを渡されると今度は自分で食べ始めました。
「よかったね」
エイトの言葉にミーティア姫はこくんと頷きました。
「じゃあ、次の料理持ってくるね。ひき肉といもとチーズの入ったオムレツだって言ってたよ。いもは僕がむいたんだ」
「まあ、そうなの!早く食べたいわ」
エイトが手伝った料理と聞いて、姫はますます食べたくなりました。
「すぐ持ってくるね」

            ※            ※            ※

そうして漸くミーティア姫の昼餐は終わったのでした。
嫌いなものを食べ切ったということは姫にとって大事件だったので、夕方遅く城に帰還した父王にこと細かに報告しました。トロデ王も大層喜ばれ、教育係や料理長、エイトにもお褒めの言葉を賜ったのです。


終わってみれば牡蠣はそんな怖いものではなく、ただ美味しいだけだったのですが、ミーティア姫は後々まで何かあるにつけ、「あの時のこわいスープ」と引き合いに出したものです。そしてエイトもまた「あの時のこわがりぶり」を話の種にして、二人で笑ったのでした。


                                          (終)



2009.4.30 初出




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