風花




春まだ浅い、トロデーン。
日射しは日に日に暖かくなってはきているものの、風は刺すような冷たさだ。
そんなトロデーンの兵舎で、僕は困り果てていた。
「お前随分苦闘しているなあ」
同僚の苦笑混じりの言葉もあながち的外れではない。昨日近衛兵に昇格したばかりの僕は、着慣れない制服に悪戦苦闘していたのである。
「あの、すみません。お見苦しいところをお見せして」
「ああ、堅苦しいことはここでは抜きだ」
彼は確かに同期なのだが歳が若干上だったし、何より某男爵家の出であった。兵の間に変な身分関係を持ち込まないように、とのお達しはあるのだがそれに甘えていると痛い目を見るかもしれない。ただでさえ破格の若さなのに、僕は本来近衛兵になれるような身分ではない。どこで妬みを買っているのか分からないのだから気をつけるに越したことは無いと思っている。
「あの、ついうっかり紐を解いてしまって」
でも変に堅苦しくしているのもまたそれはそれでいびりの対象になりやすい。その辺の匙加減が難しい、かな。
「何だ、解いてしまったのか。それな、解くものじゃないんだ。下にホックが付いているだろ。それを引っ掛けるだけなんだよ」
「あっ、本当だ。すみません、助かりました」
それにしても何だろう、この制服の複雑怪奇なことといったら。飾りボタンやら房飾りやらがついていて、どこを外せばいいのか最初は見当も付かなかった。これが通常の近衛兵の制服なのだというから恐れ入る。昨日着ざるを得なかった儀礼用の制服ともなれば肩章とマントが付く。兜には羽飾りだ。
初めて袖を通して鏡で自分を見た時にあまりに板に着いてなくて、借り着にしか見えなかったのにがっくりしたっけ。……この先なるべくそういう式典に出席せずに済むことを祈ろう。
「さっさと着替えろよ。姫様をお待たせしては申し訳が立たんからな」
「へっ?!」
思わず声が裏返る。
「何だ、忘れていたのか?昨日、午前中は護衛だって言われていただろう」
危なかった。どうやら予定をうっかり忘れていたものと思ってくれたようだ。
「ほら、早く行け」
何とか着替え終わった僕の肩がぽんと叩かれ、部屋を追い出された。


それにしてもまだまだだな、と思う。武官なればこそ、感情を剥き出しにしてはならない筈なのに、不意にあの方の名を聞くと動揺してしまう。あの方が──ミーティアが視界に入ろうものならもう、心臓が破裂せんばかりに肋を打つ。
絶対に表には出すまい、と深く心に刻んでいた筈だった。けれども宣誓式の時につい、ミーティアの顔をまじまじと見詰めてしまった。そして見てしまったら、もう眼が離せなかった。怪しまれる、気付かれる、僕の中にある不埒な想いを、と必死に逸らそうとしたのに、吸い付いてしまったかのように離すことができない。
宣誓する時も、ずっと必死だった。僕はこのトロデーンに身命を捧げるんだ、この国の国主たるトロデ王様に誓うんだ、と思っていた筈だったのに!
…今更言い訳したって仕方ない。僕はただ、この国の為に剣を取る。僕を育ててくれたこの国の為に。それが恩義に報いることなのだから。新しい制服に身を包んだ今、改めて誓う。

           ※          ※          ※

が、ミーティアの部屋の前まで来ると僕の決心はあっさり揺らいだ。普通ならどうということのない室内への取次ぎですら、動揺してうまく言葉が出ない始末。さらに部屋から出てきたミーティアと眼が合った時、棒立ちも同然の状態になってしまった。柔らかそうな白貂のフード付きケープと、手には同じ素材のマフをはめ、まるで雪の精のようなミーティア…
「行きましょうか」
動揺する僕に対し、ミーティアは常と変わらない平然とした声で言い渡し、身を翻した。その言葉にはっと我に返る。勤務中なのだ、私情に流されるな、と。
先を行くミーティアは何も言わない。こちらを振り返ることもない。それでもここ数年では考えられない程の近さにあの方がいる。翻る裳裾も触れそうな程に。もうそれだけで身体が震えそうになる。やっと得た、貴重な一時。ミーティアは、このことをどう思っている…?
でも庭に出ても状況は変わらなかった。行き交う人々の礼を受け、ふと足を留めて足元の日溜まりに咲く小さな花を愛でる。僕はただ、何も言わず従うだけ。その素っ気なさに自分の心の内の葛藤が恥ずかしかった。


そのうちいつもと違うことに気が付いた。訓練場からミーティアが散歩している姿が見えるので知っているんだけど、この寒い時期の散歩は早々に切り上げている。なのに、普段よりずっと長く散歩している?
「あの…恐れながら申し上げます。お寒くはございませんか」
思わず言ってしまったのには訳がある。海を見遣るミーティアの横顔、その頬の赤味が薄れている。それに晴れて日射しはあったけど空気は冷たく、時折風花が舞うような天気だった。
「いいえ。…大丈夫です」
寒くない訳がない。現に声が震えている。
「ですが」
「お願い。もう少しだけ」
その声は必死だった。僕がこの瞬間を手放したくなかったのと同じように、ミーティアもまた手放したくなかったのだ。


僕にはもう、何も言えずただ側に控えることしかできなかった。冷えきったミーティアの髪に絡む風花を見詰めながら。
冷たく乾燥した空から落ちてきたそれは、目で見てもちゃんと六華の形をしていて、冷たく、美しく、あの方の黒髪を飾っているのだった。

                          (終)




2006.2.11 初出








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