道の始まり4




4.

荒野を探索すれども少年の姿は影も形もない。運悪く雨風の強い日があって、足跡が残っていたとしてもすっかり消されてしまっていた。
「見事なくらい何の気配もないですな」
数日後、お手上げといった雰囲気で男は言った。
「血の臭いもなく、行き倒れた様子もない。これは何とか荒野を抜けられたんじゃろうか」
グルーノは西の岬へと続く荒野を抜ける隘路の方を見遣った。一見切り立った断崖が行く手を阻んでいるように見えるが、一際鋭く突き出した崖の横に通れる場所があるのである。
「行ってみますか。確かあの小屋でも『トロデーンに向かった』と言ってましたし」
「うむ、そうじゃったな」
男の言葉に頷いて二人はその細い通路を辿り始めた。
「ところでの、」
しばらく無言で歩いた後、グルーノがおもむろに口を開いた。
「荒野を抜けたら後はワシ一人で行った方がいいと思うのじゃ」
「しかし」
「竜神王様は『人界に関わってはならぬ』と仰っておいでじゃった」
男の反論を遮って続ける。
「この姿で歩き回ってもう随分になる。ヒトの前に姿を現してはおらんとはいえ、そろそろ限界じゃろう。それにお主にも仕事を中断させてしもうた」
「いいんですよ、監視の仕事は時に退屈で。それなりに楽しませていただきましたし。同じ里の者と話すことができて嬉しかったですよ」
「元々この大陸を選んでエイトを下したのも、お主がおるからということもあったんじゃ。南の大陸は未だに伝染病が蔓延しておるし、西の大陸、あれの父祖の国では身元が明らかになれば不都合があろう。王位継承争いに巻き込まれては不憫じゃしの」
砂地だった地面が徐々に固くなり、所々に草が生えてきた。もうすぐ荒野を抜けられるだろう。
「西の大国の王子として幸せに暮らす筈じゃったあの子の両親を奪い、せんでもよい苦労をさせることになってしまったのじゃ、せめてあの子自身が選んだ人生を歩ませてやりたい。それが娘の最後の願いでもあったのじゃし」
グルーノはそう言った後、無言のまま歩を進めた。



角を曲がった途端、青草の匂いが清々しく鼻腔に広がった。荒野を抜けたのである。彼方に人影を認めて二人は潅木の茂みに隠れた。
「どうやらここまでのようじゃの。ここからはワシ一人で行く」
「どうぞお気を付けて」
「なあに、簡単にくたばったりせんわい。猫なんぞ一睨みで追い払ってくれるわ」
と呵々と笑い、すぐ真顔に戻って言った。
「長く付き合わせてすまなかったの」
男は頷き、短く答えた。
「落ち着いたら連絡を」
「もちろんじゃ。お主のおかげで随分助かった。礼を言う。
それからの、迷惑ついでにチーズを一欠片分けてくれんか。この様子じゃとまともなものは食べておらんじゃろし」
「お安いご用でさ」
袋からチーズを出す間にグルーノはネズミの姿へと変化した。男がチーズを渡すと口に加え、感謝のつもりなのか前足をちょんと上げる。
「ご幸運を、グルーノ老」
男の呟きに振り返りもせず、ネズミとなったグルーノはちょこちょこと草叢の中へ走り去って行ったのだった。

           ※          ※          ※

エイトは何日もかけて辿り着いた先をゆっくりと探索した。ここは西の方に突き出た岬でほとんどが草原だった。初めは何もない、と思っていたが意外にフェンネルやチャービルなどの食べられるハーブ類が生えていて辛ろうじて飢えをしのぐことはできる。雨風を防ぐ程度には木立もあり、水もあって、何とか食べる物がある。
(ここにいてもいいかな)
変な魔物も少しはいたが気になる程ではなかったので、エイトはそんな気持ちになった。
しかし、それはつかの間のことであったのである。
ある朝のこと、木立の中で目を覚ましたエイトはよく知っている生き物が草地をうろついているのに気が付いた。
(牛だ!)
牛乳が飲めるかもしれない、そう思って牛を驚かさないようにそうっと近付いた。運のいいことにそれは子牛を連れた乳牛だった。人懐っこくこちらを見る母牛に安堵して撫でてやろうと手を伸ばした瞬間、罵声が響く。
「こらっ、あっちさいげっこの。この牛泥棒が!」
牛に気を取られ気付かなかったがどこからともなく少年─エイトより数歳年上だった─が現れ、エイトを怒鳴りつける。
「ぼっ、僕ちがいます。ど、泥棒じゃありません」
慌てて訂正しようとしたが、それは無駄だった。
「おめ、他所もんだろ。他所もんは泥棒に決まってるだ。出てげ、ほれ、ぶたれねえうちに出てげ!」
手にしていた棒を振り回し、こちらへと迫る。
エイトは仕方なく逃げ出した。



走りに走ってもうあの少年からは見えないだろう、という所まで来て漸くエイトは一息吐いた。
(どうしよう)
居心地の良かった岬での生活には戻れそうもない、あの少年が度々来るのならば。新しい場所を探さなければならない。
とぼとぼと海に沿って歩いていると山の向こう側に何かの建物がちらりと見えた。すっかり忘れていたが、山小屋のおじさんは「荒野を抜けるとお城がある」と言ってなかったか。
(そうだ、行ってみよう)
だがしかし、海は断崖、そして急斜面の山が行く手を遮っていてあちらへは行かれそうもない。
途方に暮れたその時、腹が鳴った。そう言えば今日は朝から何も食べていない。牛に気を取られ、その後は逃げることに必死でささやかな荷物も木立の中に置いてきてしまったようだ。
と言って戻ればまた追い立てられる。今度こそ打たれてしまうだろう。捕まって牢屋に入れられてしまうかもしれない。エイトは荷物を諦めることにした。諦めたと同時に疲れがどっと出て、座り込む。近くのせせらぎから水を掬って飲むとたちまち睡魔が襲ってきて、その場で眠り込んでしまった。



それから数刻が過ぎただろうか、エイトはくしゃみして目を覚ました。どうも草の葉が鼻をくすぐったようである。伸びをしながら起き上がると、足元に変わった毛色のネズミが一匹ちょこんと座っていた。目が合うとネズミは恐れる風もなくこちらを見返す。
(食べられるかな)
そう言えば肉なんてもうずっと食べていない。このネズミくらいだったら捕まえて食べることができるかもしれない。エイトはそう考えた。
そんな不穏なことが考えられているとは露知らず、ネズミは足を駆け登ってきた。よく見ると口にチーズが一片、くわえられている。思わずエイトが手を出すとネズミはチーズを掌の上に落とした。
「くれるの?」
自分に渡すかのような行動を不思議に思って訊ねるとネズミは短く「チュ」と鳴く。それを「いい」という返事に受け取ってエイトはそのチーズを食べた。
チーズを最後に食べたのは何日前だっただろう。人の作る食べ物がこんなに美味しいなんて、と思いながらあっという間に平らげた。
「どうもありがとう。おいしかった」
人心地ついてネズミにそう言う。どこから持ってきたものだったのか、とても美味しくて懐かしい味がした。
「行かなきゃ、夜になっちゃうし。ネズミさん、さようなら」
エイトは立ち上がって歩き出そうとしたが、ネズミは足元をぐるぐる回って離れようとしない。
「…お前、どうしたの?」
足を踏み出せず、仕方なく問いかける。元より人の言葉など分かるはずもないと思っていたのだが、ネズミは回るのをやめこちらを見上げた。小首を傾げる様子は物言いた気で、人ならば何か言ったかもしれないが生憎その姿はネズミのもの、口から出るのは「チューチュー」という鳴き声ばかりだった。
「…一緒に来る?」
手を差し伸べるとネズミは掌に飛び乗った。
「僕、エイトだよ。お前の名前…どうしよう」
手の上のネズミを見ながらエイトは思案した。
「チロル、は何か変だし、プックルも違うし…そうだ、トーポはどうかな?どう?」
返事のようにネズミ──トーポは「チュ」と鳴いて答え、それからの旅の友となったのだった。



西の岬からトロデーンへは山肌をくり抜いて作られた随道がある。しかし運悪くエイトの目線からは潅木の茂みに覆われていて見つけ出すことができず、結局崖をよじ登ることとなった。トーポが先に進路を示してくれたし、身の軽かったエイトは苦労しつつも何とか山越えに成功した。
山を下りきった時、雨が降り出した。飲まず食わずで山越えしてきたエイトは喉の乾きが治まってほっとしたが、今度は雨に体温が奪われて冷え始める。どこかで雨宿りしなければ、と思ったものの身を寄せる岩陰も大きな木も見当たらない。
いや、正確には道を逸れれば木立があり、旅人のための教会もあって助けを求めることができたはずなのだが、雨に顔を俯けていた上に募る雨足に煙って見付けることはできなかったのである。道沿いには潅木があるばかりで何の足しにもならなかった。
それでももう少しでお城が見えるからそれまで我慢しよう、と何の根拠もない期待で心を奮い立たせて足を動かし続ける。でもそれも限界だった。
雨風を防げるはずもない大きさの潅木に身を預けるようにして座り込むと、もう動けない。何も食べていない上、ずっと歩き通しで疲れ切った身体に冷たい雨が降り注ぐ。けれどもそれを防ごうという力はもう残っていなかった。
手足を投げ出すようにして座るエイトにポケットの中からトーポが顔を出し、注意を促すように小さく鳴く。
「トーポ…」
ポケットの中から出してやると手の中に収まった。動物のふかふかした手触りが心を慰める。
「ありがとう…」
もう動けないだろう。子供ながらもエイトは悟った。さっきからトーポが手の中にいるのに全然温まらない。トーポも寒そうに震えている。
「トーポ、ありがとう。もういいよ、ポケットにお戻り」
手の中にいるよりはましだろう、とポケットの中に帰そうとしたがネズミは暴れて剥き出しの項に駆け登り、襟巻きか何かのように巻き付いた。
「ごめんね、トーポ…」
もう温もりも感じられない。意識がだんだん遠離っていく。
「お…父さん、お母さん…どこに、いるの……」

           ※          ※          ※

「やれやれ、ひどい降りになってしまったのう」
トロデーン城の主、トロデ王は領地の見回りの帰りに雨に降られていた。
「もうすぐ城門でございます。今しばらくのご辛抱を」
「うむ。早く帰って姫と熱いお茶を飲みたいものじゃ」
馬車の中で近従とそんな会話がされていた時、急に馬車が止まった。
「何事です?」
近従が窓から身を乗り出して御者に問いかける。
「はっ」
護衛に従っていた近衛兵が駆け寄ってきた。
「どうやら子供の行き倒れがいるようでして…」
「斯様な者など放っておきなさい」
「待て」
権高な近従の言葉をトロデ王が遮る。
「我が領内でそのような者が骸を曝すことはワシが好まぬ。最早事切れておるのならば埋葬し、まだ息があるのならば助けてやるように」
「ははっ」
王の言葉に兵は急いで子供の所へと向かった。そしてその身体を抱きかかえて戻ってきた。
「どうじゃ?」
「はっ、まだ辛うじて息はあるようでして…子供を守るようにネズミが首廻りを温めておったのがよかったようでございます」
トロデ王は兵の腕の中にいる子供に目を遣った。黒っぽい髪、痩せてずぶ濡れで、頬は蒼ざめている。歳の頃はただ一人の娘と同じくらいであろうか。難儀な旅をしてきたのか手足は傷だらけであった。ポケットの中から件のネズミがこちらを窺っていたが、トロデ王と目が合うとすぐに頭を引っ込めて隠れてしまった。
「…馬車の中へ」
あまりの不憫さに目頭の熱くなった王は一瞬言葉を詰まらせた。
「お、王様、ですが」
「見てみい、こんなにずぶ濡れになって。見れば我が姫と同じ歳の頃ではないか。助けてやれるものなら助けてやろうぞ」
「ははっ」
近従が席を移って片側を空けてやり、兵が馬車の中に運び入れようとした時、子供が呟いた。
「お父さん…」
「むっ?」
だが子供は再び意識を失ってしまった。トロデ王はしばしの間顔を俯かせていたが、
「さっ、早う城に戻るぞ」
と務めて明るく周囲に命じ、馬車は目前のトロデーン城目指して走り出したのであった。
                                        (終)





2006.1.9 初出 2006.9.9 改定










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