月の影




私はミーティア姫様の教育係としてマナーなどを指導している者でございます。
姫様が十の時からですのでお仕えして八年になりますでしょうか、姫様は概ねご立派な生徒でいらっしゃいました。私の申すことを素直に聞かれ、ご自分に非があればすぐに直されます。ごく稀にですがご機嫌が悪いと、
「分かりましてよ、エチケット先生」
などと仰っしゃることもございましたが、普段から親しくさせていただいておりました。
そのご縁かどうかは存じませんが、今宵サヴェッラでのお世話を申しつかっております。


城が恐ろしい災厄から復活してすぐにサザンビークから勅使がいらっしゃり、ご縁談も元の通り復活いたしました。なんとめでたいことなのでしょう。両国の民にとっても平和の印となるこのご婚礼は歓迎されておりました。当のご本人を除いては。
いえ、サザンビーク側がどうこうと言うのではございません。式の行われるサヴェッラに着いてまず先方のメイドさん方に言われたことは、
「これで王子様も落ち着いてくださるでしょう」
でしたから。
ですが姫様は…あのお美しい姫様のお相手は近衛隊長のような凛々しい貴公子ならばよろしゅうございましたのにあのようなぶ…いえ、何でもございません。
先程王様とお二方での最後の晩餐をとっていらっしゃいました。姫様は表向きにこやかになさってはいたものの食事には手をお付けになられません。王様もお気付きになられて、
「何か口にしてはどうかの」
と勧めればフォークを口まで運びはしますが召し上がることはついにありませんでした。
「…疲れておるのじゃろ。無理はせんで今夜はゆっくり休むがよい」
王様のお言葉を有り難く思い姫様は寝所に戻られました。
「本当に何か口にされた方がよかったのでは」
と申し上げたのですが、
「…ごめんなさい、今は何も食べられませんの」
と仰るばかり。
「ではお休みになられますか」
と伺いますと、
「そうね、そうします」
漸く姫様は頷かれました。


お召し替えも終わりほっとなさっていた時、急に扉がバタンと開きました。
「まあ、このような夜更けにいかがなさいましたか?王子様のお部屋は二階だったと思いますが」
サザンビークのチャゴス王子でした。王子は気取った様子で仰せになられます。
「ミーティア姫におやすみの挨拶をと思いまして」
衝立(ついたて)の向こう側では姫様が必死で合図を送っていらっしゃいます。涙目になられ見るもおいたわしいご様子でした。
「大変申し訳ございませんが、もう姫様はお休みになられました。どうぞお引き取りを」
そう申し上げたところ、
「僕は姫の夫だぞ。寝顔を見ても何の問題もないはずだ」
と仰っしゃって衝立の向こう側を覗こうとなさいます。
「畏れながら申し上げます」
姫様はお気の毒にも突っ伏して震えていらっしゃいます。私は衝立の隙間に立ちはだかって申し上げました。
「結婚前の女性の寝所に入るは無礼の極み。これ以上のことがあれば衛兵を呼びますが」
明日こそ結婚式ではございますが、サザンビークの王子とか言う男はまだ姫様の夫ではございません。言外にそれを匂わせたところ、漸く部屋を出て行かれました。ぶつくさ言いながらでございましたが。
「怖かったわ…」
背後で姫様が呟かれました。なぜか姫様はチャゴス様を大層嫌っていらっしゃいます。あの災厄の前はなかったことなのですが…
私のような下々の者があれこれ言ってはいけないとは思うのですが、今のようなことがありますとご結婚の正しさに疑いを抱いてしまいます。これは私一人だけではなく姫様のお側近くにお仕えする者ならば誰しも思ってしまうことのようです。本来ならば人生の中で最も輝くべき時でしょうに、姫様のご様子は…
いえ、私どもの浅はかな思いなど及びもつかない両国国王陛下のお考えあってのご縁談なのでしょう。私は職分を全うするばかりでございます。


明日はご婚礼の朝でございます。ドレスやお化粧などの準備があるので早く起きていただかねばなりません。
「お早くお休みになられませ」
私の言葉に頷かれ、姫様は寝台に横たわりました。
「よくお休みになられますよう」
と申し上げましたが、姫様のお顔を拝見いたしますと虚しい言葉のように思えてなりません。
姫様がずっと前から一人の方の面影を心に抱いていたらしいことは気付いておりました。まして長い困難な旅を共になさっていては想いはますます強くなられておいででしょう。それに暗黒神の脅威から世界を救った勇者ですもの、姫様の婿君として何の不足もないでしょうに。
返す返すも残念なのはそれを王様が言い出す前にサザンビークの勅使が来てしまったことでした。


やはり姫様はお休みになられずにいらっしゃいます。溜息や啜り泣きの音すらせず、衝立の向こう側は深閑として恐ろしいくらいでございました。息を止めてご自分を亡き者にしようとなさっているのかと思ってしまう程に。
「…」
ふと姫様が何事か呟かれた気配がいたしました。はっきりとは分からなかったのですが、誰かの名前だったかもしれません。
ところがそれが聞こえたかのように扉が静かに開き、近衛隊長が入って来たのでございます。
「まあ近衛隊長!こんな夜更けにどうされたのです?姫様はもうお休みになられました」
常日頃の快活な様子はなく、暗い影を目に宿しておられました。何か言いたげでしたが、私は敢えて何も言い出させませんでした。
「あしたはいよいよ結婚式です。姫様にお話があって来たとしてもこの場はあきらめてくださいませ」
隊長はうなだれて立ち去って行かれました。
私とて次の機会がないことは承知しております。
ですがこのままお通ししてしまったらどうなるでしょう。お二方を罪にお落としすることはできません。
幸い姫様はお気付きにはならなかったようです。
ですが…これが幸いだったのでしょうか?お二方手に手を取り合って逃げてしまわれた方が真に姫様のお為になったのでは?


私には分かりません。できることはただ、姫様の眠りをお守りすることだけでございます。


                                                 (終)




2005.5.10 初出









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