夢よりも確かなもの




目を、逸らされた。
煉獄島から漸く脱出してきた四人が、お父様と一緒に船に乗り込んで来る。出迎える私と目が合った瞬間、エイトは俯いた。
気のせいよね…と思ってみたけれど明らかに私の目を避けている。一ヶ月にも及ぶ幽閉生活で汚れている自分を恥じているのかと思ってみたのだけれど、そうではないような気がする。
夢だと思っていたけれど実は本当のことだったのかもしれない。人の姿をしていない、その上誰か他の人との結婚が決まっていてそれを動かしようもない人より、誰だって自由な立場の人の方がいいに決まっている。それにゼシカさんは女の私の目から見てもとても魅力的なのだし…
そう思い始めると急にそれが確定事項のように思えてくる。ククールさんにはつんけんしているのにエイトに対しては優しいゼシカさん。エイトもいつも気を付けて装備を整えてあげている。最初は女の身で魔物と戦いながらの旅なのだし、装備がちゃんとしていないと命に関わるからそうしてあげている、エイトは気が利く、優しい人だと思っていたの。でも本当は違っていた。見ていないけれどもう分かったわ、新たな街に着く度に二人で楽しく買い物しているってこと!
こんな時表情を持たない馬の姿でよかったと思う。本当は声を上げて泣いてしまいそうだったから。でもこんなことで悲しそうな様子を見せたくはない。特にエイトにだけは。
確信してしまうと再会の喜びも萎んでしまった。お父様と矢継ぎ早に情報を交換し合っている四人を後目に、さり気ない風を装って隅の方へそっと退く。素知らぬふりをして海の方を眺める。でも本当は何も見えていなかった。
「姫様…」
低い声で呼び掛けられる。エイトだった。
「ご迷惑お掛けして申し訳ございませんでした」
いつもと変わらぬ様子だったので少し落ち着きを取り戻した。けれどその礼儀正しさこそがゼシカさんを選んだ証のように思えてならない。
「あの…本当に申し訳ございません。僕の判断の誤りでこんなことになってしまって」
そんなことなんて気にしていないわ。
「あの…姫様…」
気を遣っていただかなくてもいいの。本当はゼシカさんの傍に早く戻りたいのでしょう!
「姫様?」
耳を伏せ顔を背ける私にエイトはただ溜息を吐くばかりだった。

               ※          ※          ※

あの夢のことがあって最初は甲板で出迎えてくれたあの方と目を合わせるのが怖かった。その澄んだ瞳に何もかも見通されるのではないか、と思って。でもあの方の姿を見たいという思いを抑えることはできず、王様と話し合いながらもちらちらとあの方の姿を窺っていた。最初はミーティアも嬉しそうに僕たちの話を聞いていた。なのに、途中からだんだんうなだれてきてついには隅の方へ引っ込んでしまった。
あまりに悲しそうだったので、そっと近付いて一ヶ月もの無礼をお詫びしたんだけど埒が開かない。まさかあの夢を共有していたんじゃ…いや、でも、あの夢の中のミーティアは僕の願望から造り出された幻影だった筈。もしかしてどこかから見ていらしたんだろうか。それなら辻褄は合う。最初は嬉しそうになさっていたのは腑に落ちないけど。
でもあんなことをしているのを見たらきっと嫌な気持ちになるに違いない。それも自分にそっくりな人に。
謝っておいた方がいいのかな。でも何て言えばいいんだろう。
「あんなところをお見せして申し訳ございませんでした」
「あれは本意じゃなかったんです」
…だめだ、どれもなっていやしない。見せなければ何をしてもいい、って訳じゃないだろうに。きっと「見ていないところでそういうことしているのね」って思われてしまう。
ああもう、どうしたらいいんだ!

              ※          ※          ※

サヴェッラで聞いた話から考えて、杖はどうやらマルチェロが持っているようだった。まずは奴から杖を取り戻そう、とみんなの意見が一致した。全ての賢者の魂を吸い取った状態でまた封印できるかどうかは分からないけど、でもそれが一番いい方法だと信じて。
彼は法皇位を継ぐため既にサヴェッラを出てしまっている。そこで僕たちも後を追って聖地ゴルドへと向かった。


ゴルドに着くと、明日がその法皇就任式だとかでいつもにも増して混雑している。就任式の前に取り戻したかったんだけど騎士団の連中に阻止されてしまった。式の前で警備が厳しくなっている。今夜はあきらめ、明日に賭けることにした。
皆疲れているし今夜はちゃんとした寝床で寝たかったんだけど、宿はもう満員だった。
「平気平気。変なハンモックより船の寝床の方がいいわ」
「大体ここやサヴェッラの宿はぼったくり過ぎでげす。泊まる気にゃなれねえでがすよ」
「だな。ハンモックで一人五十ゴールドなんてぼったくりバーも真っ青だぜ」
なので今夜は船着き場に船を泊めその中で、ということになった。簡単な料理を作って食べ─それでも久しぶりの温かい料理は有り難かった─、早目に床に着く。船なので王様も一緒に寝床に入られた。
その夜更け。
僕はなぜか目を覚ました。疲れていたはずだったのに。そしてそのまま眠れなくなってしまった。寝床は暑苦しく、とてもまた眠りに就く気にはなれない。仕方なく夜風にでも当たろうかと思って甲板に出た。
静かな夜だった。ただ寄せては返す波の音ばかり。明日戦いが待っているとはとても思えない。でも波の音に耳を傾けるうち、ふと異変に気付く。
あの方がいない。天気のいい夜はいつも甲板で星を見ていらっしゃるのに。
辺りを見回すと近くの波打ち際に佇んでいる姿が見えた。ああ、ミーティアも眠れないんだろうか、波の打ち寄せる様子でも見たかったのかもしれない、と思ったんだけど、どうも様子がおかしい。その姿から深い悲しみと異様なまでの緊迫感が漂っている。
と、海に向かって一歩踏み出そうとした。
「ミーティア!様!」
つい昔のように呼んでしまい、慌てて敬称を付けた。ミーティアははっとこちらを見たけど、すぐに頭を廻らし海の中に進んで行こうとする。
「何をなさっておいでです?!」
船のタラップを降りるのももどかしく、途中で飛び下りて水を跳ね飛ばしながら浅瀬を走る。
水に足を取られ転びそうになりながらも何とか辿り着く。もう僕の腰の深さの所まで来ていた。腕を広げ行く手を遮りながら問いかける。
「いかがなさったのです?このままでは溺れてしまいます」
聞かないふりをして深みへと歩いて行こうとする。このままでは危ない、何が何でも止めさせようと頚を抱き、踏ん張ってそれ以上進ませまいとした。
「お止めください、どうか!」
僕を払い除けようと頚を振り、あの方は進もうとする。下は砂地で踏ん張りが効かず、僕はそのままずるずると深みへと押されていった。
「ミーティア!」
もう顎を挙げていないと口に水が入ってくる、そんな深さまで押されてしまった時思わず叫んでいた。「姫様」とお呼びしなければならないことも忘れて。
「もしかして死にたいんですか!そんなこと僕が許しません!」
一瞬歩みが止まった。深い悲しみを湛えた瞳が僕を見遣る。
「どうしてもと仰るのならば、僕を殺してからになさってください。姫様にならば本望です!さあ!」
何としても思い止まらせたくて叫ぶ。今、自分が何を言っているのか、何をしているのかよく分からないままに。
「どうなさいました?死にたいのでしょう?だったら僕もお供いたします。城を出る時申し上げましたでしょう、『どこまでもお供いたします』って!」
歩みは完全に止まっていた。
「いつまでも呪いを解くことができずにいる僕にお腹立ちなのは分かります。ですがどうかお時間を。必ず、この身に代えても呪いを解く方法を見つけ出しますから…」
見上げると泣き出しそうな顔をしているように見えた。
「不甲斐ない僕をお許しください。愛想を尽かせてくださって結構です。でも僕は最後までお供すると心に誓いました。例え姫様が嫌だと仰ってもお供いたします」
見上げているうち、ミーティアは小さく溜息を吐いた。何か言いた気に。
「泉に参りましょうか?」
抱かれていた身体がぴくりと動いたかと思うと、ミーティアは激しく首を横に振った。
「その姿ではお苦しいでしょう、行きませんか。いくらでもお話を伺います」
馬の姿では泣くことすらできない。泉で人の姿に戻られた方がいい、と思ったんだけど…腕の中のミーティアの心臓は激しく脈打っているし、少しでも楽にして差し上げたかった。
「僕にご不満があるのでしたらどうぞ仰ってください、だから泉に行きましょう」
今度も横に首が振られる。でも穏やかになった息遣いが落ち着きを取り戻しつつあることを示していた。
「どうかお一人で…どこかに行ってしまわないでください…」
呟く僕の頭の上にミーティアの頭が乗せられる。はっとしたけどすぐに頚をしかと抱き直した。もう絶対に離すまいと。
傍目にはただ馬とそれにしがみついているだけの僕たちの姿。でもどんなに姿が変わろうとも誰よりも慕わしく、何よりも大切なあの方に違いはない。今だけ、今だけはこのままで…
でも潮は静かに満ちてさざ波が僕の顔を濡らし始めた。それでも構わず頚を抱き続けていると不意にバンダナが引っ張られる。見上げるとあの方の目が微笑んでいた。
「…戻りましょうか。潮も満ちて来たことですし」
そう言って腕を離すとミーティアは身体の向きを変えた。いつものようにそっと肩に手を掛けるととことこと─水の中だから音はしなかったけど─陸に向かって歩き出した。


陸に戻ったのはいいんだけど、塩水に浸かっていたせいで何もかも濡れてぶよぶよだ。せっかくの美しい芦毛も艶を失ってしまっている。
「どこかで身体を洗わないと」
と言ってもゴルドのある島はほとんどが荒れ地だ。水は女神像の横を滝となって落ちた後、地中へと吸い込まれてしまう。
「船に戻りませんか、水もありますし」
でも首は横に振られた。僕もまだ船には戻りたくなかったし、いいかな。
「では水をこちらに持って参ります」
それも首を横に振る。
「そのままでは塩だらけになってしまわれますよ」
と言うと困ったような様子を見せた。
「…では少しだけ歩きましょうか」

           ※          ※          ※

ごめんなさい、ごめんなさい、エイト。
わがままだった私を許して。弱いミーティアの心を叱って。自分の心に振り回されてあなたを失ってしまうところだったわ。なのにどうして、こんな酷い私に優しくするの。
泉には行きたくない、いいえ、行けないと思ったの。あんなにぐちゃぐちゃな気持ちのまま行ったらただもう泣くしかできなかったもの。それに何を口走ってしまうかも分からなかった。
ずっと思い悩むうち、「私の存在が何もかもいけないのかもしれない」という気持ちになってしまって。あの時はもう、自分の存在を消し去ることばかり考えていた。私を止めようとするあなたの言葉も口先だけのことだとばかり思っていた。本当は違っていたのに!
お父様への忠誠にせよ、…何にせよ、私を案じてくれる心は真実のこと。なのに気付けなかった。気付こうとしなかった。自分の心の暗闇にばかり囚われて何も見えなくなっていた。
「どこまでもお供いたします」
…そうよ、あの時その言葉に勇気づけられてどこまででも旅して行けると思ったのではなかったの?
もう悲しい夢に惑わされないから。ただあなたの背中だけを見詰め付いていくわ。どこまでだって付いていくわ。今改めて心に誓い直したから。


少しだけ、ということで一緒に浜辺を歩いていた時、ちょっと立ち止まって隣のエイトをちら、と見遣った。エイトも私を見返して微笑んでくれる。嬉しくなってまた歩こうとした時、低く呼びかけられた。
「あの…姫様…」
つい人の時の癖で顔をエイトの方に向ける。
「お名前でお呼びしてもよろしいですか」
息が止まりそうだった。あんなに何度もお願いしてもなかなか変えようとはしてくれなかったのに。
「ミーティア様」
エイト!
「どこまでもお供いたします」
どこまでだって付いて行きます!
「ミーティア様」
何度でも呼んで。自分の名前がこんなに美しいものだなんて知らなかった。
「僕の…あ…心を、永遠に捧げます」
身体が震える程嬉しい。
「ミーティア様?」
私の心も永遠にあなたのものよ、エイト。もう自分の心が産み出す闇に惑わされないから。
頚を差し伸べる。塩っぱい匂いのするエイトの前髪を掻き分ける──


月夜の浜辺、白い馬が青年の額に顔を寄せ、前髪の毛繕いのような仕種をしていた。青年もその馬の頭に腕を廻し、もう一方の手で髦を梳き遣っている。浜辺の二人の姿を見た人は誰も、いなかった。

                                  (終)


2005.8.21 初出 






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