薔光




朝の気配が窓のないこの部屋の中へも忍び込む。
冷たく澄んだ空気に動き始めた人々の気配が混じる。
結局まんじりともせずこの朝を迎えてしまった。思い疲れたまま身を起こす。
「おはようございます、姫様。どうぞ手水をお使いくださいませ」
「ありがとう」
遠いことのようにメイドの言葉に答える。泣いては駄目エイトを想っては駄目泣いては…
「…姫様いかがなされました?」
メイドの言葉にはっと我に返った。
「いいえ、何でもないわ…いい朝ですね」
努めてにこやかに話しかける。そう、せめて周りの人々には優しく穏やかに接していかないと。
「早速ではございますが、お支度に取り掛からせていただきます。朝餉はその後でよろしゅうございますか」
「そう…よろしくお願いします。それから朝食は要りません」
「かしこまりました」
隣室から他のメイドたちも呼ばれ、支度が始まった。
髪が梳かれ、白粉が叩かれ、紅が注される。夜着は脱がされ、コルセットが私の身体を締め上げる。いつもは辛いことなのに今朝はもう何も感じない。
眼前に純白の衣裳が用意された。
「許婚者」が何を意味することか知らない頃、これを着ることが夢だった。これを着てエイトの隣に立つのと心に決めていたのに。
知らなければよかった。あのまま時が止まってしまえばよかった。もう戻れない、私たちの大切な日々…
いつの間にかそのドレスを身に纏わされていた。何の感慨も湧かないけれど、花嫁衣裳を着るってこんな気持ちなのね。あの頃は早く大人になって着てみたかったけれど…
ティアラが被せられ、ヴェールが被せられた。時のたつのがなんて早いの。もはや式の刻限が来てしまった。
「支度はできたかの…参ろうか」
お父様が迎えに来てくださった。
「おめでとうございます、姫様」
という声を背に館を出て、お父様に手を取られ昇降機に乗る。


透明な通路の外に抜けるような青空が眼下に広がっていた。まばゆい朝の光が私たちを包む。
「…わしはな、確かにトロデーンの王として姫の結婚を決めた」
下界に向かって降りていく中、お父様が呟いた。
「じゃがな、親として子供の不幸は望んでおらん」
そう言うとお父様は私に向き直った。
「姫や、今ならまだ間に合うぞ。エイトが」
「お父様っ!」
突然出たあなたの名に戦きながら私は言葉を遮った。
「…もう決まってしまったことですわ。両国の争いの火種にはなりたくありません。それに…エイトは関係ありません」
心の震えを悟られぬよう、ゆっくり強く答える。
「気付いておらんとでも思うておったか」
長い下界への通路が早く終わればいいのに。これ以上私の心を揺るがせないで。
「何度でも言うぞ。わしは姫の不幸を見過ごしにはできん」
「でも両国の民は?」
私の小さな呟きにお父様は押し黙った。
「お父様はおっしゃいましたわ。王者は我が身を無にして民の幸せに尽くせと。そして王者たるには先ず自らの王であれと。
私はもう決めております。両国の安寧のためにあろうと」
自分で自分の心の処刑を行わなければならないなんて。でも私のようなずるい女には相応しいことなのかもしれない。
「…馬鹿なことを教えてしもうたわい。王者は孤高の道を行き、人としての幸せは求めるべきではない。だがかわいい姫にその道を行かせねばならんとは」
「お父様…」
「許しておくれ、姫や」
「いいの、お父様。これで全てが収まるべきところに収まるんですもの」
そう、私の心は昨日の夜のうちに燃え尽きてしまった。きっと過ごして行ける、これからを。でもエイトは…
許して、エイト。辛い思いしかさせなかった私を許して。
「参ろうかの」
いつの間にか昇降機は下に着いていた。扉の向こうで衛兵が私たちを待っている。


外はいい天気だったように思う。全く気付かなかったけれど。私はただ目の前の地面ばかりを見ていたから…
ゆっくりと大聖堂の正面に廻る。もしかしたらエイトの姿があるかもしれないと無駄な−それも抱いてはいけない−期待をしたけれど、その姿はちらとも見えなかった。
人波の向こうからゼシカさんやヤンガスさん、ククールさんが何事か叫んでいた。けれど、喧騒に阻まれはっきりと聞き取ることはできなかった。
エイトの姿を見ることができなくて悲しいようなほっとしたような気持ちで、震える自分を抑え、人々に向かって会釈し、大聖堂の扉へ向き直った。
扉がゆっくりと開く。私もお父様も内陣の人々に向かって頭を下げつつ数歩前へ進み出た。
内陣の暗さに目が慣れても、私には頭を上げる勇気はなかった。ここに来てなぜ震えるの。震えまいと決めたのではなかったの?
その時、私の手を取るお父様の息を呑んだ気配を感じた。でももう何があっても動揺しない。ただ前だけを見て行くと決めたのだから。
さあ、頭を上げて自分の進むべき道を行くのよ。それが例え死ぬまで続くエイトのいない日々であっても!
心の声に従って私はゆっくりと頭を上げ、伏せていた眼を開く─


                                             (終)




2005.1.30 初出









トップへ  目次へ