狩りのロンド




ふと眼を離した隙に、あの方のお姿が消えてしまった。
いつもの散歩、いつものように先を行くあの方─ミーティア。その様子はいつもと変わりなく、花々を愛で、空を見上げ、遠くの景色に眼を遣り、そしていつものように後ろに控える僕に一言二言言葉を掛ける。人目を憚るように。僕もまた、一言二言答えるのが常だった。人目を憚って。
けれどどうしたことだろう。先を行くミーティアが薔薇の垣根を曲がり、そのすぐ後に続く僕が角を曲がった時にはもう、影も形もなくなっていたのだ。
「姫様?」
返事はない。風にそよぐ薔薇の葉の、さやさやという音ばかり。
「姫様、どちらに─」
と言いかけた時、葉擦れの音に交じって風が衣擦れの音を運んできたのに気付いた。振り返るとどこでどうやったのか、ミーティアが裾を翻して小路の奥へと駆け込もうとしている。
「姫様」
返事はない。ただ駆け去ろうとしている足音ばかり。
「急にいかがなさいましたか」
僕をからかっているんだろうか。でも、一人にする訳にはいかない。城の中だって誰が潜んでいるのか分からないのに。
「お待ちを、姫様」
幸か不幸か庭には誰もいなかった。誰かいたなら協力してミーティアを追うことができただろう。でもこんなところを見られる訳にはいかなかった。いつ何時誰が姿を現すか分からない。早く捕まえなければ。


ミーティアが逃げる。僕が追う。もう少しで追いつく、と思った瞬間もあったけど、するりと身をかわされて逃げられてしまった。
「姫様」
追わない、という選択肢はなかった。どこまででも追いかける、そして自分の手で捕まえる、そんな思いが僕を駆り立てる。
でも終わりはやってきた。ふいっとミーティアが曲がった小路、追いかけて駆け込もうとした僕は足を止めた。この道を行ったのなら、先回りできる筈。そう考えてミーティアが入り込んだ小路とは反対側の小路へ入り、曲がり角の陰で息を潜めて待ち構えた。
何も知らないミーティアの軽やかな足音が近付いてくる。一層気配を殺して静かに待ち構えていると、不意にミーティアが後ろ向きでこちらに入ってきた。まるで後から追いかけてくる筈の僕を待ち構えようとしているかのように。
「姫様」
そっと呼びかけると、ぱっとこちらを振り返り、慌てて逃げようとした。その手を僕が捕らえる。
「いかがなさいましたか。今日は少々悪戯が過ぎるのではございませんか」
僕の問いにも答えず、ただ、僕の手から自分の手を引き抜こうとしている。いつもならそんなことしないのに、つい、僕も外された指をまたミーティアの手に絡ませていた。離すまいとするかのように。
「だって」
漸くミーティアが口を開いた。
「エイトが追ってくるのですもの」
「姫様がお逃げになられるからです。お一人にする訳には参りません」
僕に責任を転嫁するかのような言い草にちょっとむっとして、強い口調で言った。その言葉にミーティアがぱっと顔を上げる。その途端、視線がぶつかり合った。
「だったら」
ミーティアの口調は静かだったけど、強い意志をはらんで僕の心に突き刺さる。
「エイトも逃げないで」
淡々として、むしろ優しい口調だったのに、なぜか厳しい叱責のように響いた。己の怯惰を見透かされたようで。
「僕は─」
一瞬身の内であらゆる感情が嵐のように吹き荒れた。ミーティアへの想い。それを押し殺そうとする理性。王家への忠誠。息を深く吸い込む間に決着がついた。
「逃げません。決して」
自分でもずるいと思った。でも他にどう答えるというのだろう。
どんなに慕わしく想っていたとしても、それを表に出すことはできない。ならばただひたすらに身の内に隠し、眼を逸らし続けるのが一番簡単だった。それをするな、というミーティアの言葉は耳に痛かった。
本来ならそこで向き合うべきだったのかもしれない。だけど弱い僕はそれをしなかった。ただ身体的にミーティアの前に立って賊や敵から身を挺して守るという忠誠の意味だけを込めて言ったのだ。
気付かれたくなかった。だけど気付かれていた。
「…そう」
一瞬悲しそうな光が眼の中を過ぎる。でもそれはすぐに隠されて快活な様子にとって変わる。
「ありがとう、近衛兵さん」
そう優しく微笑むミーティアの顔を見た時、身体の奥がしく、と痛んだ。
もっと強かったなら。ミーティアが行ってしまうその日まで焼け付く痛みに耐えて守っていけるだろうか。自分の想いから逃げずに済むのだろうか。
「お疲れになられたのではございませんか。大分走られましたし」
でも弱い僕はただ、体面ばかりを慮っていた。
「…ええ。戻ります」
素気なく言うと、ミーティアは向こうを向く。自分の弱さが見透かされたようで恥ずかしかった。
「手を」
そう言われ、ずっと手を握ったままだったことに気付く。慌てて離すと、僕の指の痕がミーティアの白い手に赤くくっきりと残っていた。
せめて、強くなれるよう。何者からも逃げることのない心を持てるよう。いつまでも、ミーティアをただ、慕い続けるだけでいられるよう…


                                             (終)




2007.3.2 初出









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