雨夜の想い




窓枠に打ち付ける雨音に、ミーティア姫は顔を上げた。一日中降った雨は止むことなく、夜に入ってますます強く降り続いているようである。
(早く止めばいいのに)
天気に向かって文句を言っても仕方のないことだと知りつつも、小さな溜息を漏らさずにはいられなかった。
姫の日常は公務の他、学問や習い事で一日びっしりと予定が組まれている。そんな中で庭の散歩をする一時を心待ちにしていたのだった。
(エイト…)
姫は心の中でそっと、想い人の名を呼んだ。ずっと好きだったその人は近衛兵となって、庭を散歩する時の警護役としていつも付き従っている。人の目もあり、立ち入った話は何もできなくともその一時は何物にも換えがたいものだった。けれどもこの雨では散歩などできはしない。
だからといって、他の行動をする時の警護を振り替えてもらうことはできなかった。王族の警護は兵士にとって名誉なことであり、特定の人物にそれを偏らせることは避けなければならない、と常々言われていたのである。素性の知れないエイトが近衛兵に取り立てられたことは異例中の異例であり、ただでさえ妬みを買いかねないのに、それ以上のよからぬことを考える者があったとしてもおかしくはない。軍紀は厳しく取り締まられていたが、そういった人の心の負の部分までは如何ともし難い。先日も父王から、身分の低い兵士の食事を奪って我が物としたり、支給されている給料を巻き上げていた者を見つけたので左遷した、という話を聞いていた。その者が某侯爵家の縁者だったために、その家の体面を保ちつつも他兵への示しをつけるためにかなり苦労した、とも。
そのような者は身分差に対して非常に敏感なので、自分より少しでも身分が低い者は虐め、上の者に媚びへつらうものだった。そんな中でエイトを庇えば、それを贔屓と見做して余計に事態を悪化させるだろう、ということに姫はおぼろ気ではあったが気付いていた。彼らは王族の寵が自分に向いていないと気が済まない上に自分より身分の低い者がそれを独占していることが許せないのだから。できる限り公平に振る舞って見せることで不要な揉め事を起こさないようにしなければならないのだった。
もう一度深く、姫は溜息を吐いた。公務が入れば散歩の時間などすぐ削られてしまう。ここ数日、来客が立て込んでいて学問の時間すら免除になっている。散歩など思いもよらない状態だった。やっと来客もない、今日こそは、と思っていたのにこの雨である。密かに前日からどのドレスを着ようかと考えていたのに、と姫は泣きたくなった。日没まで何度も外を窺って行けそうならすぐ行こうと思っていたのだが、願い空しく日も暮れてしまったのである。
(明日は…)
居心地良く設えられた席を立ち、姫はせめて明日は晴れないか、と窓辺から空模様を窺おうとした。重いカーテンを少し除けて窓との間に身体を滑り込ませると、ひやりとした空気に身が震えた。この分では外はかなり冷え込んでいるに違いない。ガラスの冷たさに驚きつつ、指先でそっと曇りを拭き、外を覗いた。
(エイト…!)
見覚えある背中が窓からほんの数歩のところにあったのである。部屋からの仄かな明かりに背負った槍の穂先が鈍く光ったが、気付く風もなくあちらの方を見ていた。吹き付ける風によろめきつつも踏ん張って堪える。雨粒を払うことはとうに諦めたのか、時折頭を振って溜まった雨水を落とすばかりでひたすら遠くを見張っているのだった。
呼びかけたい、と姫は思った。が、あらゆる思いが込み上げてきて胸が詰まり、声が出ない。心の中だけで呼びかけたくともそれすらも憚られるように思えた。エイトは任務中なのだ、と。
その時不意にミーティア姫は理解した。エイトは兵士で、自分は王女であると。どんなに近く思えてもその間には深く越え難い何かがあるのだと。丁度、今エイトとは数歩の距離なのにガラスで隔てられているように。
それでも信じていたかった。身分という大海で隔てられてはいても、エイトとはどこかで繋がりあっていると。けれどもその繋がりとは「主従」というものであり、現に今こうして暖かな部屋で守られているのは自分であり、凍える雨に打たれながら外で見張りをしているのはエイトだった。それも、自分の身を守るために。
「ごめんなさい…」
胸を押さえながら姫は崩れ落ち、ぺたんと座り込んだ。散歩ができないことに不満を感じていた自分が急に愚かで身勝手なものに思え、恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
「エイト…ミーティアは、あなたに、何をしてあげられるでしょう…」
エイトだけではない。名も知らぬ兵士や使用人たちによって自分の生活が守られている、という事実の重みに姫は身震いした。彼らが身体を張ってこの城を守ってくれているからこそ、王族である自分が安穏と暮らしていけるのだ。自分は誰かの命と引き換えに守られている、そんな価値が自分にあるのか、と。
「どうしたらあなたを守れるの…」
エイトの命を危険に曝すことはできない、その他の人たちだって、と姫は強く思った。ならば、彼ら彼女らを守る術はどこにあるのだろう。治水や土地の整備で天災を防ぎ、無用な争いを起こさない。一人一人の力では難しいそれらをするために存在するのが王だった。父王は今までそれをしてきたから、そして自分はこの先それをしてくれるだろうから守ってもらっているというのに。
恐る恐る目の前に手をかざす。先程曇ったガラスを拭いたせいで濡れた指のそれは、自分にも頼りなく見えた。この手の上にたくさんの人々の命が載っている。エイトも含めた、トロデーンの民たちの命が。
(エイトのように剣は取ることはできないけれど…)
口を固く引き結び、ミーティア姫は立ち上がった。
「あなたを、守ります…」
王族として、トロデーンを守る。そのためならば例え望まぬ結婚であったとしても、この国を守ることができるのならば受け入れよう、と。ミーティア姫は雨に煙るエイトの後ろ姿に強く誓ったのだった。


                                                  (終)



2007.7.18 初出









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