記憶の扉




文机の引き出しを開けた時、何かが転がり落ちた。
引き出しの中で便箋が折れていたらしい。ちょっと力を入れて引いたら開いたのだけれど、勢いがついてしまったのか何かが飛び出してころころと転がっていってしまったのだった。
何が落ちたのかしら。机の中にそんな転がるようなものを入れていたかしら。不思議に想いながら床の上に目を凝らすと、ピアノの下に光るものがある。何が落ちたのか気になって、私はピアノの下に潜り込んだ。
それは硝子玉だった。摘み上げた指の間で滲んだ虹のように柔らかく光るそれは、この前の散歩の時に城の子供から貰ったもの。
「ミーティア姫さまがエイトたいちょうとごけっこんなさるから、おいわいです」
たどたどしい口調と、おずおずと差し出された手のひらの上に乗る、硝子玉。きっとその子の宝物だったのだろう、大事に握り締めていたのかすっかり人肌に温まっていたから。
近くにいた侍官は渋い顔をしていたけれど、私はただ素直に嬉しかった。こんな小さな子供が祝福してくれて、それを心から嬉しく思える自分がいることに。
「ありがとう。大事にしますね」
嬉しいという心のままにお礼を言って受け取り、散歩から帰って大事に文机の引き出しにしまったのだった。
その時のことを思い出し、自然に笑みが零れた。これからも大事にしようと心に決め、さてピアノの下から出ようとしてふと何かが目に留まった。
ピアノの下、黒く塗られていない木の部分に何か書いてある。奇妙にたどたどしく歪んで子供の字みたい、と思いながらその字を撫でた瞬間、全ての記憶が甦った。
あれは、雨の日のこと。外に出られなくてエイトと部屋で遊ぼうとしたら、エイトは何だかとても悲しそうな顔をしていた。
「何でもないよ。大丈夫だよ」
と言い切るエイトに随分しつこく理由を聞こうとしたのだっけ。そうして最初に話を聞いた時は話さなかった、冷たい雨に打たれながら彷徨って倒れたということを聞いたのだった。
そんな辛かったことはエイトも話したくなかったのかもしれない。とてもしょんぼりした顔になってしまって、可哀想だとあの時の私は思ったのだった。私にはお父様がいる。でもエイトにはお父様もお母様もいなくて、雨の日に道に迷ってお父様がいらっしゃらなかったらきっと死んでしまったに違いない。
何かエイトにしてあげられたら、せめて元気になれるように、と思って私は本棚から一冊の本を取り出し、余白に大きく「大吉」と書いたのだった。いつかエイトが偶然この本を開いた時に楽しい気持ちになれるように。
本に落書きするなんて普段だったら思いもよらなかっただろうけれど、その時だけは特別だった。エイトと二人、その本にある余白という余白に落書きして、後でたっぷりお説教されたのだったっけ。
このピアノの落書きもその時のものだった。私が音楽の先生の似顔絵を描いている横で、エイトがごそごそとピアノの下に潜り込んで書いたもの。
「ミーティアとエイトはずっと仲良し」
エイトはそう書くつもりだった筈。でもちょっと綴りが怪しくて「みーちあ」のように見える。「えいと」も「えと」だし。
懐かしさとほんわりとした優しい気持ちでいっぱいになって、もう一度文字をなぞった。真珠の玉を連ねたような優しい思い出の数々に何度も慰められてきた。そしていつか来るべき日が来たらそれを頼りに生きていかなければならないのだと心に言い聞かせてきた。でも、そんな悲しい決意の必要はもう、ない。
「ミーティア?」
控えめに扉を叩いた後そっと部屋に入ってきたエイトが私をみて目を丸くする。
「どうしたの、そんなところに入って」
「ちょっと子供の頃を思い出していたの」
そう答えると怪訝そうな顔をした。
「ほら、エイト」
ピアノの下から手招きすると、エイトが隣に滑り込んでくる。
「ほら、これ」
不思議そうな顔のエイトにあの文字を指し示す。と、エイトがはっと息を呑んだ。
「あっ、これ…!」
「思い出した?」
くすくすと笑いながら問いかけるとエイトは大きく頷いた。
「随分怒られたよね、あの時。でもこれは見つからなかったんだ」
そう言うとエイトも懐かしそうにその字を撫でた。
「綴りめちゃくちゃだなあ、これ」
顔をちょっと顰めたけれど、懐かしそうな眼の色は変わらない。
「そう言えばあの時の本…ううん、いいや」
ふと、エイトが何だか意味深な言葉を呟いた。
「なあに?」
「何でもない。…ミーティアが僕を走らせる力の源だったってこと」
もう、どうしてそう逃げるの。
口には出さなかったけれど、エイトには伝わったらしい。
「本当だよ」
真剣な眼差しが向けられる。
「どんなに辛くても、ミーティアがいてくれたから最後まで戦うことができたんだ。
本当にありがとう、ミーティア」
「エイト…」
だんだん、だんだんエイトの顔が近付いてきて、思わず眼を閉じるとエイトの唇が──


そのままずっと、日が傾くまでピアノの下で思い出話をしたのだった。繰り返される口づけの合間に。


                                             (終)




2008.5.9 初出









トップへ  目次へ