月の光を抱いて




暖かな夜の空気に誘われて、久々に城壁の外に出た。
小さな木戸をくぐるとそこは城の果樹園。様々な果樹が植えられているが、今は丁度林檎の花が散ろうとしていた。
風もないのにはらはらと花びらが散っていく。白い林檎の花びら一枚一枚が満月の光を孕んで果樹園は白く冴え冴えと輝いていた。
かつては見上げる程だった林檎の木々。でも今見るとそんなに大きくはない。あまりに大きいと作業し難いからだ。なのにあの頃あんなに大きく見えたのは僕たちが小さかったからなんだろうか。
二度と戻れないあの頃。今はもう、気安く言葉を交し合うこともできない。それをあの方がどんなに望んでも、決して応えることはないだろう。この城の王女、主君の姫、そして婚約者のいるあの方。抱いてはならない想いを持て余し、遠く見上げるばかりの僕。何もかも変わっていく。
小耳に挟んだところでは婚儀は来年の春頃になるらしい。まだ正式に決定した訳ではないけど、そういう噂だ。たくさんの調度や衣装、さらには付き従う人々の衣装も新調される、と人の出入りが活発になっている。どんなに噂に疎くてもその様子を見れば必ず悟るに違いない。「ミーティア姫の婚礼の日は近いのだ」と。
僕はそれらから目を背け、自己の殻の中に閉じ篭っている。過ぎ去ってしまった、もう取り返しのつかない日々の思い出を宝石か何かのように後生大事に守り続けている。今の僕が抱く苦しい想いもない頃の、ただひたすら仲良しだった頃の思い出の欠片を。
そうだ、このまま奥に進んでいけばあの時一緒に乗った木が見えてくる筈。二人で馬にでも乗っているようなつもりになって遊んだんだっけ。あの方が本で読んだ奇観を語り、世界中を巡ったつもりになっていた。それに飽きると今度は花びらを拾って…
「花びらをね、地面に落ちる前につかまえることができたら、願いごとがかなうんですって」
ふと、耳にあの時聞いた言葉が蘇った。
「そんなの簡単だよ。ほら!………あれ?」
そう、簡単だと思っていたのに、花びらはするりと僕の手をすり抜けて飛んでいってしまう。
「つかまらないよ、これ」
むきになってぴょんぴょん飛び跳ねて捕まえようとした僕に、あの方は笑いかけた。
「だからきっと願いごとがかなうのよ」
叶わぬ想い、か。自嘲気味に自分の手を見遣ると、そこへはらりと花びらが落ちてきた。
…所詮はまじない事だ。願いは自分で叶えるもの。叶わないと分かっている願いなら、抱くだけ無駄だろう。でも、もし、叶うのなら…
そんな取り止めのないことを思いつつ、歩を進める。いつの間にか向くともなしに思い出の絡む木へと向かっていた。もうすぐ、あの木立を過ぎれば…
…ない!
そこには大きな切り株があるばかりだった。そうだ、去年の夏、大嵐があったっけ。果樹園にも大きな被害が出たとかという話を聞いたような気がする。記憶の中で納得するような答えが得られたが、何か心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。
何もかも、変わっていくんだ。季節は変わり、いつもあるものと思っていたものも変わっていく。同じ季節が廻って来ても、それは去年の春ではない。同じ月の光だと思っても、それは前のものではない。変われずにいるのは、あの方を慕い続ける僕の心だけだった。

                                  (終)


2006.5.21 初出 






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