冬の道




冷たい風が城壁に吹き付ける。遥か崖下では荒波が打ち寄せる。トロデーンに冬が来ていた。
「お寒うございませんか」
今日何度目だろう、先を行く人影に向かって呼びかける。
いいえ、と首が横に振られ、風に髪が翻った。その様子に話を繋ぐ術を失って、僕はただ小さく息を吐いた。
先程からずっと無言であの方─ミーティアは歩き続けている。何か思うことがあると、ミーティアはこうやって長く散歩することがあった。何を言うでもなく、僕もただそれに従う。しばらく無言の時が流れて、じきに微笑が戻ってくるのが普通だった。
なのに今日はどうしたのだろう。もういつもの倍は歩いている。
「姫様」
少し強い口調で呼びかけると、白い毛皮のケープに被われた細い肩がぴくりと動いた。
「あまり寒いところにおいでになってはお身体に障ります。ご自愛くださいますよう」
吹き抜ける風の音だけが一際大きく響く。僕は辛抱して返事を待った。
「分かりました」
長い沈黙の後、漸くミーティアが口を開いた。僕に背を向けたまま言葉を続ける。
「寒い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません。もう戻って結構です」
「そうは参りません」
隣に人がいる時のような作法に則った言葉遣いもさることながら、その内容に驚いて一歩前へ踏み出した。
「恐れながら申し上げます。例え城内であっても、姫様お一人で歩くことはお慎みくださいますよう。この散歩も、僕一人だけの従者であるのは特例として認められているだけで…」
だんだん尻すぼみになったのは、小さいけれど深い溜息が聞こえたからだった。
「お願い、もう少しだけ…」
切なげに訴えられたけど、僕は首を縦に振れなかった。
「お戻りを、姫さ…」
最後まで言い切ることができなかった。一陣の風がミーティアの髪を弄ったかと思うと、そのうちの一房が無意識のうちに伸ばしていた僕の手の指に絡みついたのである。
「あの…」
ミーティアの髪は、冷たかった。しんと冷たい、寂しい冬の夜のようなその感触が忍び込んで、僕の心はたちまち同じ色に染め上げたような気がした。
「あっ…」
ミーティアもそれに気付いて、そっと髪を押さえる。すると髪はさらりと解けた。
「あっ、あの、ご無礼をお詫び申し上げます」
それを一瞬でも惜しい、と思ったことを隠しつつ、無礼を詫びる。どうか気付かないで欲しい、と願いながら。
「だ、大丈夫です」
肩越しのミーティアの頬に、さっと赤みが差す。
「も、戻ります」
そのままぎくしゃくと踵を返そうとした途端、いつもよりずっと着膨れした懐からチン、と聞き慣れない音がした。
「姫様?」
「あ、あの…ごめんなさい!」
ごとん、と重たげな音で足元に釜のようなものが転がった。慌てて拾おうとする手を制し、先にそれを拾い上げる。
「これは…」
落ちた衝撃でだろうか、留め金が外れて中から一振りの剣が転がり出てきた。
「どうしてここに?」
僕の剣だった。練習用に使っていた、古いものだ。切れ味も悪かった上に、一昨日の稽古中に折れてしまっていた。後で鍛冶場に持っていって接いでもらおうとその辺にしまい込んで、そのまますっかり忘れていたものだった。
「あの…エイトの剣が折れてしまったと聞いたので…何とか接げないかとミーティアの手鏡を使ってみたのだけれど、上手くできなかったみたいね」
その言葉に慌てて片膝を付いた。
「恐れ多うございます。そのようなお心遣い、もったいなく存じます」
深く頭を垂れ、謝意を示す。このような場合での決まりきった口上があって助かった。ただもう先程のことやこの剣のことで混乱していたから。
「寒い思いをさせてしまってごめんなさい。では、戻りましょうか」
何としても主従の陰に隠れようとする僕にミーティアは気落ちしたのか、やや素っ気無い口調で言うと歩き出した。僕もそれに従おうとして、ふと、立ち止まった。
「あの…姫様」
ミーティアの歩みが止まる。
「あの…ありがとうございます。いつまでも、大切にいたします」
一度口を開いてしまうと、澱みなく言葉が流れ出た。隠しておこうと思っていることまでつい言葉にしてしまいそうになる程に。
「ありがとう」
ミーティアは振り返らなかった。ただ、そう言った後で片手がマフから引き出され、顔の辺りに遣られるのを見た。
「釜は重くございませんか。お持ちいたします」
「ありがとう」
振り返ったミーティアはもう、いつものミーティアだった。
「冷えていらっしゃるのではないですか」
「そうね。でもお部屋は暖かいので大丈夫よ」
「後で熱いお茶をお持ちするよう、厨房に通達いたします」
「嬉しいわ。ありがとう」
それからはもう、いつもの会話だった。あの一瞬などなかったかのような。


剣だけが、冬空を映して鈍く冷たく光っていた。


                                                (終)




2007.12.19 初出









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