観察のきろくと考察



家族で正餐の卓を囲んだ後、部屋に戻るミーティアと分かれて昔馴染んだ所へ足を向けた。
「これはエイト様」
客はいなくとも正餐を作るというのは一日の大仕事だ。それを終えて寛いでいた料理長が僕の姿を見とめて慌てて立ち上がり、礼を取る。それに習って後片付けをしていた他の人たちも急いで手を止めて頭を下げた。
「あっ、あの、エイトでいいです」
ここの人に対してはつい敬語になってしまう。城に来た最初の頃はここで芋の皮むきだったし、兵舎に入ってからも何だかんだと手伝いをしたりして世話になっていたから。
「そんな、畏れ多い」
僕の言葉に料理長はますます深く頭を下げた。
「…」
こういう時、すごく寂しい気持ちになる。あの頃は怒られたり褒められたりしながら一緒に働いていたのに。自分の生まれが明らかになってミーティアと結婚してからはもう、よそよそしいの一言に尽きた。顔馴染みのメイドさんや庭師さんとすれ違っても、声をかけようものなら鼻を床に擦りつけんばかりの勢いで頭を下げられてしまう。もちろん、会話が成り立った例はない。王族の一員となったのだからそれは仕方のないことだとは思うんだけど、でもミーティアに対しては敬意を示しつつもそれなりに親しく話したりしているのでどうも凹んでしまう。毎回そんな思いをしつつも諦めずに話しかけているのは、心のどこかでまた前のように話したりできれば、と一縷の望みを抱いているからなのだった。
「あの、その…。…」
そしてまた今日も同じことが繰り返されるのか。僕が話しかける。城の人々が平伏す。話を続けようとあれこれ努力する。ますます畏まる。話の継穂を失う。気まずい沈黙が落ちる。それに耐えられなくなって僕はその場を離れるのだった。
やっぱりか、とがっかりしつつもここに来た用件だけは伝えないと、と気を取り直そうとした時だった。
「ぷっ…」
と誰かが吹き出したような音がする。何だろう、と辺りを見回せば、料理長の近くにいたパン焼き係のおばさんの頬が笑いを堪えているかのようにひくついている。
何か変なことしたかな。事情がよく飲み込めずぼんやりしていると、
「ぷぷっ」
と料理長も吹き出した。それをきっかけに厨房全体が笑いに包まれる。
「えっ、あっ、あの?」
ここで訳が分からないのは僕一人だけのようだ。
「エイト様」
パン焼き係のおばさんだ。肩を震わせて笑いを堪えつつ僕に優しく諭すように言う。
「そんな一人百面相などなさらないでくださいましよ」
「えっ!」
「そうでごぜえますだ」
火焚き人夫のお爺さんも笑っている。
「ご結婚なすったんでごぜえますし、もそっと堂々と構えていてくだせえまし」
何が何だかさっぱり分からなくてきょろきょろしているとますます笑いが広がった。
「エイト様、そんなに挙動不審にならないでいただけますよう。こっちとしてもどうしたらいいのか困ってしまうではありませんか」
笑い過ぎた料理長が涙を拭きつつそう言った。
「えっ、そ、そんなに変だった?」
と言った後で敬語じゃなかったことに気が付いた。が、料理長はますますにこにこ顔になった。
「そうそう、それでいいんでございますよ。でないとどうしていいものやら、皆困っていたんですよ」
「そ、そう?」
「そうでございますよ」
パン焼きのおばさんが相槌を打つ。
「大体、近衛兵になられた時にゃもう、私らよりずっと出世なすっておいでなんですから。そんな畏まらなくたっていいのに、『お手伝いしましょうか』って。本当なら王様の近衛兵さんにそんな仕事させる訳にはいかないんですよ」
「そんなものなの?」
近衛兵になってからも盛大な宴があって絶対忙しいだろうな、という時とか手伝いしていたんだ。さすがに芋の皮剥きはしなかったけど、酒樽や薪を運んだりといった力仕事を請け負っていたんだよね。思い返せば、確かに厨房の人たちも僕にそういった仕事をさせるのがさも申し訳ないような様子だったっけ。
「なのに姫様とご結婚なさって押しも押されぬご立派ぶりだというのに、そうぺこぺこされてはもう、私らの立つ瀬がないではありませんか」
おばさんの言うことは分からなくもないけど、でも気が引けるものは仕方ないと思うんだよね。
「いやでも、昔からお世話になっていたんだし何だか悪いような気がして。偉そうにするのも嫌だし」
「そんなことはございませんよ。偉そうにするのがお嫌でしたらただ普通になさっていてくださいまし。
それに私どももちゃーんと分かっておりますとも。エイト様は昔と変わらずお優しい方だって」
おばさんの背後の人たちもうんうんと頷いている。鼻の奥がつーんと痛くなって、
「ありがとう…」
と短く返事するのがやっとだった。
「ところで今日はどうしてこちらに?」
明るい口調で料理長が話題を変えてくれてちょっとありがたかった。
「あっ、そうだった」
うっかり忘れるところだった。僕の中ではかなり大事な話だったのに。
「今日の正餐に出たアレ、すっごく美味しかったんだ」
が、そう言った途端料理長や他の人たちの顔にさっきとは明らかに違うにやにや笑いが広がった。
「何でございますか?」
変だとは思いながらも料理の名前を思い出そうとする。
「うーんとね…あ、そうそう、クロケットだっけ。ホワイトソースを衣で包んで揚げたやつ。クリームも美味しかったし、あのソースがもうすっごく美味しくって。いつもどの食事も美味しいんだけど、思ってもみなかった味だったから。ほら、肉とか魚とか焼いたのは何となく味の予想ができるけど、ああいう手の込んだ料理って食べてみるまで味分からないし」
あ、今思い出してもまた食べたくなってきた。さくっとした衣とあのあつあつのホワイトソースに蟹の風味の効いたソースなんて、未知の体験。
「それはようございました」
料理長は簡潔にそう言ったけど、ついに堪えきれなくなって大爆笑した。
「え?」
「も、申し訳ございません、エイト様。ですが私どもはもう、そうと分かっておったんです」
「ええっ?」
予想外の言葉に絶句する僕にあちこちから追い討ちがかかる。
「毎日毎日、食卓から下げられてくる皿が、エイト様のものだけものすごくきれいになっているんですよ。見れば分かるってもんでございます」
「ソースがたくさん掛かっていて絶対掬い切れないだろうって時でも、エイト様の皿だけはそりゃーもうピカピカになって皿が戻ってくるもんで、どうやって召し上がっているのか気になっていたんですよ」
「まさか皿を舐めていらっしゃるんでねーかと心配しておったんでごぜえますだ」
「舐めてなんてないよ!」
誰がそんなことするか。確かに舐めてしまいたいくらい美味しいんだけどさ。だけど子供の時だってそんなことはしなかったぞ。
「だってソースも美味しいじゃないか。だから肉や魚とか、付け合せの野菜に絡めてできるだけ食べてるだけだよ」
「いやそれにしても…」
まだ料理長は笑いの発作が収まらない。
「皿が下がってくると一目瞭然なんでございますよ。王様の皿はまあ普通でしょうなあ。姫様は時々匂いの強い野菜や、ジビエ*でも特に個性の強いものには手を付けていらっしゃらないことがございます。で、エイト様は…」
「どれもこれも舐めたようにきれいなんでしょ」
憮然として料理長の言葉を遮った。何度も言わないでくれよ。
「そんなに言うんだったら、明日から食べる時にきれい過ぎないように気をつけるから」
「いやいや、そこまできれいに召し上がっていただけて、料理人冥利に尽きるんでございますよ。どうぞ全部お召し上がりくださいませ。これからも一層腕によりをかけてどんどん料理を作りますとも」
そこまで言われてしまい、より全部美味しく食べてしまわないと、という気持ちになる。
「う…これからも美味しい料理よろしくお願いします」
「へい、かしこまりました」
でも舐めたみたいにきれいさっぱり全部平らげるのはやめよう、と心に誓った夕べだった。
「いやー、それにしてもお仲のよいことで」
思い出したように料理長が付け加えた。
「ああ、うん、そう?」
毎回誰かに言われてるんで、もう何だか慣れちゃった。でもこういう時にどう返したらいいのかはよく分からなくて、曖昧になってしまう。
「今日の料理、姫様のご提案なんでございます。『エイトはね、特にクリーム系の料理が好きみたいなの。それにね、旅の途中で料理長さんの得意だった手長エビと渡り蟹のスープを色々工夫して作っていたことがあったのよ。きっと、食べてみたかったのでしょうね』と仰って」
「えっ!」
クリーム系が好きだなんて一言も言ったことなかったのに。それに、旅の最中有り合わせの材料でアレコレして作ったスープのこと、覚えていたんだ。確かに前から料理長の作っていたスープが食べてみたくて仕方なかったんだよね。
「大事にされていらっしゃいますなあ」
「…」
すごい。ただもうそれだけだった。そんなところまで観察されていたんだ。全然気付かなかった。
「じゃあ…えーっと…」
僕もミーティアの好きなものを、と思ったんだけど、悲しいことに咄嗟には何も思い浮かばない。お菓子じゃ食事にならないしなあ。どうしようと悶々とする僕を、料理長はにこにこしながら見ている。
「じゃあその…あっ、あれだ、あの、鴨の肉にオレンジのソースがかかっているやつ。あれ美味しそうに食べてたように見えたし」
苦肉の策でぱっと思いついたものに飛びついた。いやでも美味しそうに食べてたんだよね。
「かしこまりました」
料理長は「よくできました」と言わんばかりににっこりした。
「残念ながら鴨肉は切らしておりますが、同等のものを用意いたしましょう。姫様はお肉は果実のソースでお召し上がりになるのが特にお好きなようでございますね」
危なかった!あまり気にしたことなかったから全然分からなかったよ。だけど皆の手前、そんなこと知られたくなかったし。まあ、ミーティアを一番よく知っているのは僕だ、と思いたいだけなんだけどね。
「じゃあ明日、よろしく頼みます。ミーティアが喜ぶように」
途端に冷やかしの声が上がったけど、それくらい気にしない。だって、明日ミーティアの嬉しそうな顔が見られるんだから。




*ジビエ:野鳥や野生動物の肉のこと。欧米では最も珍重されている。


                                          (終)



2008.10.24 初出




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