黎明の邂逅




夜明けの光と共に、娘は家を抜け出した。


交代で見張る者たちも、この時間は気が抜けるのか、それとも一日の仕度を始めるために一時の休息を取るのか、監視の目が緩むことにここ数日の観察から娘は気付いていた。
もうここには戻ってこないつもりだった。扉を閉めた後、見納めのつもりで生まれ育った家を見上げたが、それも一瞬のこと。くるりと背を向けると足早に里のただ一つの出入り口へと向かった。
旅に出る、それももうここには帰ってこないというのに娘は何も持ってはいなかった。水や食料はもちろん、身を護るため必要な最低限の武器すらない。厳しく見張られていてはそれらの品々を用意することが難しかったが、それ以上に娘にはそのような物は必要なかったのである。
若く美しい、たおやかな姿をしてはいたが、娘の正体は竜神族。ヒトでもあり、竜でもある。魔物も本能で正体を察して寄り付きすらしないし、特別の害意を持って襲う輩には姿を変え、何物をも焼き尽くす竜の炎で退けることができるのだった。
それに長い旅路になることはないだろうと娘は考えていた。人界への道を下れば、後はすぐに目指す場所へ行きつく筈。この指輪さえあれば後は何もいらない、と娘は左手にある指輪にそっと触れた。
竜神族は元々、ヒトと同じ世界で暮らしていた。それがこうしてヒトを避けるように異界でひっそりと暮らしているのには訳がある。かつて世界を襲った暗黒神とその軍勢に真っ先に立ち向かって敗れ、街そのものを焼き討ちされたこともあったのだが、何よりもヒトと通婚することによって起こる重大な欠点を恐れたためであった。
あれから長い年月が過ぎた。その間ごく僅かな例外を除いて人界には干渉してこなかったため、竜神族のヒトとの関わりを厭う気持ちは迷信の域に達している者もいる。けれども娘はそんな迷信とは無縁だった。幼い頃から、監視のために人界へ派遣された者からの報告を楽しく聞き、生き生きとした興味を示し続けていた。どんな物を食べ、どんな服を着るのか、旅芸人の技を伝え聞いては心躍らせ、娘たちの間で流行る小物の話に眼を輝かせる。そうこうしているうちに、是非ともこの眼で人界を見たいと願うようになったのは自然の流れだった。
渋る父や里の長老たちを説き伏せ、すぐに戻る約束をして娘は人界に向かった。仄々と朝の光が射し初める頃、世界を隔てる扉を開いた娘の前に一人の若い男が立っていたのである。凛々しいその額に朝日が零れ落ちたその刹那、心奪われたとしても不思議はあるまい。新しい朝の光に輝き渡る、憧れていた世界。見知らぬとは言え、憧憬の念を湛えた眼差しと優雅な仕草で迎え入れられてはどんな娘とてひとたまりもなかっただろう。
青年はサザンビーク王子のエルトリオと名乗った。若く勇敢な貴公子であった彼もまた、一目で娘に魅せられた。惹かれあう二人に何の障害があろう。エルトリオは娘を城に連れ帰り、程なくして娘との婚姻を父王に願い出たのである。
父王は愛息の申し出に仰天し思い止まらせようとしたが、王子の意志は固かった。結局、しかるべき手順を踏んだ後に王子は娘と結婚したのである。
波乱含みの婚礼ではあったものの、娘が正式にエルトリオと婚姻を結んだことは変わりない。また、王子も娘も互いに深く想い合っていることが傍目にもよく分かり、微笑ましく思うようになった者も多数あった。二人はこのまま平和に年を重ね、たくさんの子や孫に囲まれて幸せに暮らしていくものと思われていたのである。
しかしそれもつかの間のことであった。娘の帰郷がないことに痺れを切らした父が、連れ戻しに現れたのである。探し回る間に娘がヒトと結婚したことを聞かされ激怒した父は、王子もろとも城を焼き滅ぼしてでも連れ帰るとの意志を固め、ある夜城を襲った。だがそれを察した娘は城と愛する夫を守るために自ら帰ることを告げたのだった。
だが、だからといってそのまま里でおとなしくしている娘ではない。機を計り、こうして家を抜け出したのである。
夜が明けきれば起き出す者も出てくる。急いで里を抜け出そうと更に足を速めた時。
「どこへ行く、ウィニア」
はっと足を止めかけた娘の前に若くすらりとした男がさりげなく立ち塞がった。
「竜神王さま」
娘──ウィニアは素早く目を伏せ、一族の長に礼を取る。
「ご機嫌よう」
そしてただちょっと里の外に散歩に出るだけ、という風を装って横をすり抜けようとした。
「どこへ行く、と訊いている」
すかさず竜神王が回り込んで行く手を塞ぐ。
「眠れぬ夜の目覚ましに、少し歩こうと思っただけでございます。竜神王さま」
「そのように他人行儀に話すことはないだろう」
一瞬、竜神王の眼に強い光が閃いたが、強く自制したのかまた静かな眼差しに戻ってウィニアの強い視線とぶつかり合った。
「かつてはどうであれ、今のあなた様は一族の長。不用意な口は慎むべきでございましょう」
「そうではない!」
ついに竜神王は声を荒立てた。
「かつてはそんなことはしなかった筈だ」
「昔馴染の名に甘えていた物知らずだったのでございます」
感情に波立つ竜神王に対し、ウィニアの眼はしんと静まり返っていた。
「違う。礼儀知らずと親しみの区別も付かぬ私ではない!
言えぬとならば言ってやろう、そなたがそのようによそよそしくなったのは──人界から戻ってから、だ」
「思い違いです。その前から」
ウィニアの言葉は弱々しく途切れた。被せるように竜神王の言葉が続く。
「嘘を言うな。いかに人界に疎いとはいえ、そなたの指にある指輪が何を意味するのかを知らぬ私ではない」
はっとしてウィニアは左手を隠そうとしたが、間に合わなかった。竜神王は素早くその手を捕らえ、曙光に件の指輪を掲げる。
「それにこの石、アルゴンハートであろう。物の道理も知らぬとはいえ、我らが眷族。その心臓近くで生成するこの石を狩る、忌まわしいサザンビークの輩に心許したと言うのか」
「お許しください、竜神王さま」
「我が名を呼べと申しただろう!」
深い沈黙が落ちた。ウィニアは衝動的に口を開きかけたが、また噤んだ。再び口を開いた時はもう、感情はしんと静まり返っていた。
「私にとって、あなた様は竜神王さまであらせられます」
淡々と発せられたウィニアの言葉が稲妻のように突き刺さる。その言葉のあまりの衝撃に竜神王は一瞬棒立ちになった。その隙にウィニアは手を引き抜いた。
「ご機嫌よう、竜神王さま。お身お健やかに」
「行ってはならぬ!」
その言葉にはっと我を取り戻した竜神王が再びウィニアの前に立ちはだかる。
「私がそなたにとって竜神王でしかないというのなら…竜神王として命ずる。ウィニア、この里から外へ出ることを禁じる。ヒトの男と結婚することなど認めぬ。そのような輩など、早急に忘れるのだ!」
ウィニアの眼に初めて、激情が迸った。
「私の心に命ずることなどできませぬ!お通しください。通さぬとあらば、力ずくでも罷り通ります」
力では到底敵う相手ではない。それでもウィニアは行かねばならなかった。力を解放し竜に変じるべく意識を集中させる。
「ならぬ!」
もちろん、戦えば勝てることは分かり切ったことだった。だが、竜神王は戦う訳にはいかなかった。一瞬の逡巡の後、ある呪文を唱える。
「何を…」
するのです、との問いかけはウィニアの唇の上で凍りついた。踏み出す足が動かない。一切の身体の自由を失って倒れるところを竜神王が抱き止めた。
「許せ、ウィニア」
表情すら凍てつく中、ただその眼だけが彼女の感情を覗かせていた。怒りと、そして絶望を。
「我々とヒトとは生きる時間が違うのだ。夫に先立たれ、その子その孫にも先立たれていいのか。後で悔やむくらいなら、今ここで断ち切ってしまうのが一番よい。
呪いはすぐに解けよう。しばらく頭を冷やすがよい」
懇々と道理──竜神王にとっての──を説いてやった後、ふとその眼を覗き込んだ竜神王はぎょっとした。
ウィニアの眼からはもう何の感情も窺えなかった。ただしんとした絶望と、はっきりと自分に向けられた哀れみだけが覗いていた。そんな眼差しを向けられるくらいだったら、いっそ罵倒された方がましだっただろう。


最早彼女と眼を合わせることも恐ろしく、何も言うこともなく顔を背けたまま竜神王はウィニアをその家へと運ぶことしかできなかったのだった。


                                             (終)




2008.12.23 初出









トップへ  目次へ