月光




月明かりの夜だったように思う。
その光も入らぬ奥まった一室に一人、私はいる。
「お早くお休みになられませ」
という言葉に従って寝台に横たわったものの、眠りが訪れることはきっとないだろう。
トロデーンから付いてきてくれたメイドたちとも明日でお別れ。この先はサザンビークの人たちに囲まれて生活することになる。
ずっとお世話してくれた人々は皆、トロデーンに。少しでも多く、懐かしい人々の消息を伝えて欲しかったから。もしかしたらあの人の─エイトの─消息をいささかなりとも聞くことができるかもしれないから。
エイトからの手紙はきっと来ない。そして私から手紙を出すことも叶わない。身分という鉄の壁の前に手紙を交わすことは許されないと、私は分かっている。
それに何を書くというの?サザンビークでの生活を─自分の気持ちを書くことは思いもよらない─書いたところであの人の心を徒に掻きむしるだけなのに。
遂に本当の想いを口にすることなくここまで来てしまった。人目を恐れ打ち明けられず、この先も決して打ち明けられることのない私たちの想い。何年も想い合って、でも一言も口には出せなかった。
もしかしたら、あの旅によって何かが変わるかもしれないと淡い期待を抱いていた。この縁談は破談になってエイトと結ばれることができるかもしれないと。
長い旅の間、私の視線はただエイトの背中だけに注がれていた。初めて他人の目を憚ることなくエイトだけを見つめていた。他の誰でもない、あなただけを。
魔物を薙ぎ払い、技を放ち、仲間を癒し、傷つき倒れそうになっても前に進んでいくあなただけを見つめていた。
時々振り返り、
「最後までお守りいたします」
と囁いてくれるその声を聞いていた。ほんの一時、泉で元に戻るその時よりもずっと長く。
呪いは辛かったけれど、馬車を引くことであなたの力になれて嬉しかったのよ。
でも何も変わりはしなかった。
昼間私の手を取ってくれたあなたの手は冷たかった。いつもは温かいのに。あれが最後なのね。
「エイト…」
あなたの名を呼ばずにはいられない。あなたの手の温もりを思い我が手を胸に抱きしめながら。
呼んでは駄目と分かっているの。でも呼ばずにはいられない。
一度呼べばもっと呼びたくなってしまうと分かっていたはずなのに。自分の心がもっと強いものだと信じていたのに。私の心がこんなにも弱かったなんて。


ふと衝立の向こうから密やかな足音が聞こえた。何か話声がして、そして出ていった。エイトの靴音に、そしてエイトの声のように思えたけど、それはきっと気のせいね。


チャゴス様が嫌なのではないの。エイト以外の男の方では駄目なの。私が心を捧げる男の方はエイトただ一人。この先も決して変わらない、変えることはできないと分かっている。
でもお父様を裏切れない。たった一人で私を育ててくれた大切なお父様。私に期待をかけてくださった、今は亡きお祖母様。そしてこの結婚に心血を注いでくれた家臣たち。両国の民。そして旅の途中で見た見渡す限りの美しい風景。
それらを無用な戦渦の中に陥れることはできない。私が黙ってサザンビークに嫁ぎさえすればこの平和は続いていくのだから。
分かっているの。それが王族の務め。私は頭を上げて歩いていかなければ。
でもエイトの気持ちは?路傍の草のように踏み付けにされてしまうエイトの想いはどうなってしまうの?
その傷口に一筋の癒しも与えることもできずに行かなければならないなんて。
あなたの名を呼んで泣くことができたらどんなにいいか。でも泣くことは許されない。胸の中の熱く重い何かが私の心を抑えつけて、一粒の涙さえ流せない。
この熱い重みにいつまでも耐えていかなけばならないのね。命の尽きるその時まで。それは、後何年先なの…?


明日私たちは全く別の道を歩いていって…エイトはきっと他の誰かと結婚してしまうのね。
あなたのその広い胸に抱かれる方はどんな方?あなたはどのように『愛している』と言うのかしら?それを思うだけで胸が焼け付きそう。
でも私にはそれを言う資格はないの。あんなに過酷な旅を強いて、ただあなたの心を踏みにじることしかできない私。
なんてひどい、ずるい女なの。
どうかお願い、こんなひどい私を忘れて、幸せになって。
私はあなたを忘れることはないけれど、エイトは私を忘れて。
そしてその相手の人に伝えて。
あなたはこの世で最も幸せな人なのよ、と。


この想いに焼き尽くされてしまえば、死ぬまで続くエイトのいない日々を過ごしていくことができるのかしら。心を持たない石になってしまえば。


                                            (終)




2005.1.29 初出









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