銀の月 2





兵舎の中でエイトは闇を見詰めていた。
目を瞑れば瞼の内に浮かぶはミーティアとの思い出。他愛も無い、ささやかなもの。けれどもそれがエイトの記憶の全てだった。
夢のように美しかったその記憶に溺れてしまわぬよう、エイトは目を開き続ける。それでも遠いかつてを思い返さずにはいられない。己の気が弛んでいる証拠だと自分を叱ってみても、止むことはない。
懐かしい記憶の全てはミーティアとともにあった。その記憶の元となった人はもうすぐこの城を去る。自分の従兄弟の妻となって!
何の見返りも欲しくはなかった。呪われてしまったこの城と主君と…ミーティアを元の姿に戻したい、ただその一心で旅をして暗黒神を倒しただけだった。なのになぜ、己の心に苦いしこりが残るのか。目を背ければ背ける程、それは重く激しく心を苛む。
「ミーティア様との結婚をお許しください」と王に言えばよかったのかもしれない。でもその前にサザンビークの使者がトロデーンにやってきてしまった。
最早遅すぎる。ミーティアの行く道は定まってしまい、エイトの割り込む隙はなくなってしまった。後はただ、行くしかない。二度とミーティアには会えない道を。
暗い物思いにうんざりしたエイトは寝台から身を起こし、静かに兵舎を出た。冷たい夜風に当たって愚かしい自分の思いを覚まそうと。
しかし兵舎から出た途端、エイトの足は動かなくなってしまった。庭の四阿(あずまや)に寂し気に佇む人影を見つけてしまったから。それは心の中で何度もその名を呼んで想いを叫ぶ人のものだった。
ミーティアはまだこちらに気付いていない、このまま兵舎に戻れ、とエイトの心は命じる。けれども足は勝手に動き出し、四阿に向かって歩み寄っていく。
「ミーティア様」
自分の意志とは無関係に─いや、本当は望んでいたのかもしれない─言葉が滑り出す。
「そろそろ風が冷たくなって参りました。部屋にお戻りになられた方がよろしいかと」
このような夜に二人きりにはなりたくない。これ以上一緒にいたら自分がどうなってしまうのか心許ない。そう思いつつエイトは言う。幸いにしてミーティアは背を向けている。後ろ姿ならば大丈夫…ミーティアの瞳さえ見なければ自律できる…その時、背を向けたままのミーティアが呟いた。
「覚えているかしら、あの夜を」
あの運命の夜、想いを打ち明けそうになった気まずさからミーティアの側を離れたその時に呪いをかけられたのだ、と思うと辛かった。そのまま警護に従ってさえいれば。
「あの夜、あの場所にいたのはあなたに逢いたかったからなの。どうしてもあなたとお話ししたくて」
「はい」
もう止めて欲しい。締め上げられた自分の心が痛い。痛みに耐えるべく拳を握り締め、ミーティアの背を見詰めた。と、ミーティアが振り返った。一瞬視線が絡み合う。
「ずっと前から伝えたいと思っていたことがありました。でも言うことができなかった」
エイトははっと身を固くした。行ってはならない方向に進もうとしている。このまま進めば自分も、何よりも大切なミーティアも奈落の底へ沈んでしまう!
「どうかそれ以上は」
本当はその奈落の方がどんなによかったか。けれどもミーティアをそこへ行かせてはならない。
「いいえ、言います」
「駄目です!」
言わせまいとエイトは一歩前に踏み出す。後ずさるミーティアがよろめく。はっとその手を取った瞬間、エイトの心に再び迷いが生まれた。
「どうかそれ以上のことは仰らないでください。さもないと…」
このままミーティアを攫って逃げてしまえたら。そう、呪文を唱えて逃げてしまえば誰も追っては来られない。
「あの夜、僕の気持ちが知りたかったのではないのですか。ならば今、お答えいたします」
言ってしまおう、ずっと心に押し隠してきた想いを。ミーティアの瞳もそれを望んでいる。想いを打ち明け、そして…
「お答えしたします。これが僕の答えです」
今まででは考えられない程ミーティアに近付いてエイトは囁いた。このまま腕を廻せばミーティアは自分の腕の中にすっぽりと収まるはず。自分の胸に抱き締めてもう二度と離すまい、ただ二人だけの世界へ攫っていこう…
エイトはそう決心して改めてミーティアを見詰めた。碧の瞳に吸い寄せられるように次の行動に移ろうとした時、篝火の光が金の髪飾りに反射した。それは高貴な身分の証だった。
ミーティアはこの城の姫君として何不自由なく育ってきた。庶民の暮らしに耐えられようか。何物にも替え難く大切に思う人を一時の気の迷いでそんな運命に堕すことができようか?それはエイトにはできなかった…
この世で最も大切に思っているならば言ってはならない。決して言うまい。でも…己の心の命令の焼け付くような痛みに耐えながらエイトはその手を押し頂き、手の上の空気に口づけした。自分の心は永遠にミーティアのものだ、とせめて伝えようと。
「どうかお幸せに、ミーティア様」
漸く手を離したエイトの声は震えていた。これ以上側にはいられない。
「御前、失礼いたします」
最後にちら、と見たミーティアは手を胸に抱いていた。もう振り返るな、早くこの場を去れ、と急き立てる心の声に抗うこともできずミーティアに背を向けて足を運ぶ。その足の何と重いことか。
エイトは兵舎の陰に入り込んで漸く立ち止まった。無意識のうちに握りしめていた拳を開くと手の平にはくっきりと爪の痕が残っていた。ミーティアを誰よりも強く想っているはずだったのに結局傷つけるばかりだった自分が腹立たしかった。
拳を城壁に打ち付ける。ただもう自分を壊してしまいたくて。けれども竜神王の試練を乗り越え、暗黒神を倒したエイトの手にはかすり傷一つ付くことはなかった。それでも幾度となく壁に向かって拳を振るう。


いつしかエイトの頬は濡れていた。その姿をトーポだけが見詰めていた。

                                  (終)


2005.3.25 初出 2007.1.26 改定






トップへ  目次へ