銀の月 1





細い銀色の月が西の空に沈もうとしていた。
呪いの眠りから覚め、元の威容を取り戻したトロデーン城の四阿(あずまや)に独り佇む影があった。名残を惜しむように花に触れ、愛おしげに辺りを見詰め、一つため息をついて兵舎の方を見遣るその影はもうすぐサザンビークに嫁ぐミーティア姫のものだった。
もしかしたら…という願いはトロデーンが復活してすぐ、打ち砕かれた。サザンビークからの使者という形を取って。丁重で、しかし有無を言わせぬその態度に父王も異論を挟めず呪いの前と同じ結論に達したのだった。トロデーンのミーティア姫とサザンビークのチャゴス王子との婚姻を執り行う、と。
全ては呪いの前と同じに。何もかも全て!城の人々は元に戻って幸せに暮らしている。この城に笑いや歌が戻ってどんなに嬉しいか。でも…
ミーティアは行ってはならない方向へ思いが向かおうとしていることに気付き、頭を振ると視線を手元に落とした。
ただ一つ違うことがあるとするならあの人が─エイトが─名前で姫の名を呼んでくれるようになったことだった。「ミーティア様」と「様」付きだったけれど。
あの人の声が自分の名前を言う。優しく、柔らかな声で。ただそれだけなのに心が震える程嬉しく、胸を締め付けられる程苦しいのはなぜなのだろう。
そして…以前にも増して自分に対して礼儀正しくなった。名前で呼んでくれる、でも目は合わせない。いつも一歩下がって控えている。まるで儀礼の壁を張り巡らせて己の身を守るかのように。
責めることはできない。自分も「主の姫」の立場に逃げているから。それに今更想いを告げたところでどうなると言うのだろう。あの人の心を掻き乱し、苦しみを与えるだけなのに。
でも自分の想いを告げ、あの人の想いを知ることができたなら…
相反する感情に引き裂かれ、ミーティアは再びため息を落とした。
その時背後から草を踏む静かな足音がした。あれは…
「ミーティア様」
エイトだった。
「そろそろ風が冷たくなって参りました。部屋にお戻りになられた方がよろしいかと」
それは、かつて聞いた言葉。あの運命の夜、二階のテラスで投げかけられた言葉そのままであった。
「エイト」
振り返ることができず、ミーティアはエイトに背を向けたまま呟いた。
「覚えているかしら、あの夜を」
エイトの返事は無かった。けれども微かに身じろぎした気配が感じられた。
「あの夜、あの場所にいたのはあなたに逢いたかったからなの。どうしてもあなたとお話したくて」
「はい」
声は揺れていた。思い切って振り返る。と、一瞬エイトと目が合った。すぐに逸らされてしまったが。
「ずっと前から伝えたいと思っていたことがありました。でも言うことができなかった」
ふっとエイトが目を上げ、ミーティアの目を真直ぐに見詰めた。
「どうかそれ以上は」
闇を照らす篝火がエイトの瞳に反射する。その瞳に吸い寄せられるようにミーティアは口を開いた。
「いいえ、言います」
「駄目です!」
エイトが一歩前に進み出る。ミーティアは反射的に後ずさり、踵を石畳に取られよろめいた。はっと足下に気を取られた瞬間、エイトに手を取られた。
「どうかそれ以上のことは仰らないでください。さもないと…」
熱いエイトの手。それよりも真直ぐに向けられた瞳には普段と違う何か不穏な煌めき。もうこのままエイトに何をされても構わない、どこか遠くへ攫って欲しい、そう願った時、エイトが言った。
「あの夜、僕の気持ちが知りたかったのではないのですか。ならば今、お答えいたします」
さらに一歩エイトが近付く。危険なまでに輝く瞳に魅入られたかのようにミーティアの身体は動くこともできず、うっとりとその様を見詰めるばかり。
「お答えしたします。これが僕の答えです」
息がかかりそうな程近くでエイトが囁く。その声にミーティアは何かを期待する。このまま抱き締められて、そして…
無限とも思える程長い時間見詰め合った後、エイトは身をかがめミーティアの手を押し頂いて口づけた。いや、正確には口づけたのはミーティアの手の上の空気。それは騎士が心からの愛を捧げる女性に対して許されている行為。ただ、愛を捧げるだけ。それ以上は決して、ない。
「どうかお幸せに、ミーティア様」
ごく低い声だったが、エイトの声は震えていた。ミーティアは離された手を胸に抱く。涙が一筋、頬を伝った。
こんな時でも自分の想いを隠さねばならないことが悲しかった。このまま自分の中に封印されてしまうエイトへの想い、そしてエイトの中に封印されてしまうエイトの想いが辛かった。
「御前、失礼いたします」
エイトが去っていく。四阿にはミーティアだけが取り残された。


暖かな夜気に花々も静かに揺れ、ただ噴水の水音ばかりが響く。夜も更けていく中、ミーティアは独り、立ち尽くすばかりだった。

                                  (終)


2005.3.22 初出 






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