真夜中の散歩〜水底の記憶篇〜




「ひさしぶりね、お散歩に出かけるのって」
城の東翼二階のテラスに向かいながら隣のエイトに囁く。本当は内緒の真夜中の散歩、大きな声で話しては見つかってしまうから。
「だって黙認なんだって分かっているとスリルないし」
エイトはそんなことを言う。でも本当は嬉しくて仕方ないことを私は知っている。だって足が弾んでいるんですもの。
「うふふ」
「どうしたの」
「ううん、秘密」
言ってしまったら隠そうとしてしまうかも。だからこのことは言わないの。
「教えてよ。教えてくれないとキスするよ」
「あら、お父様」
「えっ」
私の言葉に慌てて辺りを見回す。
「…うふふ、誰もいないわ」
「ひどいよ!」
「しーっ」
つい声を高くするエイトの唇に人差し指を当てる。
「秘密のお散歩、でしょ」


ルーラで荒野の山小屋に飛んだ後、ゆるゆると丘を下り荒野へと歩を進めた。
「本当に不思議。この荒野が全部水の底だったなんて」
「うん、そうだね。あんなに高い山も水の底だったんだよね」
のんびり歩きながらそんな会話をする。旅の途中幾度となく不思議な出来事に出会ったけれど、ここでの出来事程心を揺さ振られたことはそうそうなかった。
「ミーティアのおかげだよ、あんな不思議な光景を見ることができたのは」
「そうかしら?」
ふと思い出したの。人の姿を奪われ話すこともできなかった私だったのに、あの時はハミングだけだったけれど歌うことができた。
「口を開けば嘶き(いななき)しか出なかったのに…あれもイシュマウリさんのおかげだったのかしら」
「僕も久しぶりにミーティアの歌声が聞けて懐かしくて嬉しくて…本当はちょっと泣けたんだ」
隣でエイトが恥ずかしそうに言う。
「ミーティアもね、少しは旅の役に立つことができて嬉しかったの」
エイトは何も言わなかったけれど私の手を強く握ってくれた。そのまま二人で荒野を歩いていく。


それがあった場所は砂が少しえぐれて、かつてここに古代の船があったことを指し示していた。
「あの時…歌とともに水が湧き出てあっという間に海になったんだよね」
二人で夜空を見上げる。あの時私たちの足元から水の記憶が湧き上がり、幾尋*もの深い海になった。魚が泳ぎ海藻がたなびいて、明らかに水の中にいるって感じているのに息苦しくなくて、形容し難い感覚だったの。
「あの船はいつからここにあったのかしら。イシュマウリさんの言っていた旧い世界って?」
「七人の賢者とレティスの頃かなあ?この船も彼らのものだったりして」
過ぎ去った過去に思いを馳せるうち、突然エイトが地面に寝転んだ。
「エイト?」
「星がきれいだなって思って」
「えっ?」
言われて改めて空を見上げる。水の記憶にばかり気を取られ星は意識していなかった。
「ミーティアも寝転んでみなよ…ってそのままじゃ嫌だよね」
そう言って起き上がると上着を脱いで地面に敷いた。
「足の方はみ出しちゃうけど」
「ううん、ありがとう」
エイトの心遣いに感謝しつつ地面に横たわる。と、腕が伸びてきて頭の下に滑り込んだ。
「そのままじゃ痛いでしょ」
「あ、ありがとう」
エイトの腕枕…確かに地面は硬くてごつごつしているけれどそんなに辛くはない。エイトのおかげね、ありがとう。
夜空を見上げる。星々が瞬いている様子を見ているうち、空へと落ち込んでいきそうな感覚に襲われた。もしかしたら私、本当は一人ぼっちでこのままどこかへ落ちていってしまうのかもしれない…
「エイト」
訳もなく隣のエイトの存在を確かめたくなってしまった。
「何?」
「キスしてもいい?」
エイトはびっくりしたようにちょっと目を見開いたけれど頷いてくれた。私は顔を横向けて唇を重ねる。
「初めてかも」
「えっ?」
唇を離した後、エイトが呟いた。
「『キスしてもいい?』って聞かれたの」
「そうだったかしら?」
「うん。…僕もキスしてもいい?」
返事の代わりに腕をエイトの首に廻し、目を閉じた。エイトの手が私の頬に触れ、唇が静かに重なる。
「ミーティア」
唇が離れて、夜の空気が冷たかった。エイトの唇が熱かったからかしら。
「怖がらないで。いつも、いつまでも側にいるから」
もう一度エイトの唇が重なる。頬に触れていた手が───
あっ!
べしっ。
「いてっ」
「ご、ごめんなさい。エイトの頬に蚊が止まっていたの」


                                          (終)


尋(ひろ):海の深さを測る古い単位。一尋は両手を広げた幅

2005.5.27 初出 






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