『海の記憶』





「さあおいで、過ぎ去りし時よ、海よ、いまひとたび戻ってきておくれ…」
長い旅を経てもう一度元の持ち主だったイシュマウリさんの手に戻ったハープが、懐かしさを呼び覚ますような旋律を奏でる。その調べに乗って月の人の足元から水が湧き出た。が、それはほんの少し辺りを潤しただけで消えてしまった。
「どうして──!」
あちこち引き回されて漸く手に入った月影のハープ。それを以てしてもこの地の海の記憶は甦らない。悲鳴にも似たゼシカさんの声に俯きそうになった私に、不意に遠い記憶の底から声が聞こえてきた。
(歌は祈り、真実の祈りならば天地をも動かす)
真実の願い──できるのかしら?この私に。でも、この思いに嘘偽りはない。そう思った時自然に脚が動いて前へと進み出ていた。
「姫様?」
エイトが怪訝そうな顔でこちらを見る。分かっている、この馬の身で何ができるというのだろう。でもその時は身の内から湧き上がる思いを抑えきれなかった。
「気付かなかったよ。馬の姿は見せ掛けだけ、そなたは高貴なる姫君だったのだね?」
イシュマウリさんがそっと手を差し伸べる。そして腑に落ちたように一つ頷いた。
「…そうか。言の葉は魔法の始まり。歌声は楽器の始まり。呪いに封じられしこの姫君の声、まさしく大いなる楽器にふさわしい。
…姫よ、どうかチカラを貸しておくれ。私と一緒に歌っておくれ」
真実の思いならば天地をも動かす。歌は祈り、音楽の始まり。真実の願いならこの地に海を呼び戻せる筈。不思議に歌えない、という考えはなかった。力あるハープも、イシュマウリさんもいる。きっと、必ず──
月影のハープの調べに乗って、私の唇から歌が溢れ出す。人の姿の時の声そのままに。この時ばかりは呪いも何も関係なかった。ただこの大地の夢見る思いに身を委ねていた。
ああ、私は識っている。この地の記憶を。遠い昔、今はただ微睡の中で夢見るだけの記憶。その思いの全てが私の中に流れ込んでくる。今一度、この場所に海を。もう二度と還ることのない懐かしい水底の記憶をもう一度。大海を往く喜びをもう一度。海藻がそよぎ、魚が泳ぐ生命に満ち溢れた海の記憶を。
私たちを取り巻く空気が変わる。たくさんの思いが私の中を通り過ぎていく。こぽ、と水の湧き出る音を聞いた瞬間、一気に海が満ち溢れた。
この地の持つ記憶そのままに水底の景色が鮮やかに甦る。この込み上げる思いはこの地の思い?懐かしくて涙が零れそうになる。水の中だというのに胸の内に直接音楽が響いて不思議な感覚だった。
岩を食み、砂に半ば埋もれた船が静かに浮かび上がっていく。ふと、イシュマウリさんの声が聞こえたような気がした。
(懐かしいものに引き合わせてくれた礼を言おう)
同時に輝く階段が現れて私たちを差し招く。促されるまま歩を進め、その半透明の階を上る。背後でエイトがふわりと降り立った姿が見えた。
階段を登り切り、船端から振り返ると最早深い水底となった先程までの地面でイシュマウリさんがこちらを見上げていた。
「さあ、別れの時だ。旧き海より旅立つ子らに船出を祝う歌を歌おう…」
その言葉と共にハープを一つかき鳴らすと、月の人は微笑みを残して消えていった。
(さようなら、月の方。旧き記憶をありがとう)
心の中でそっと礼を述べる。きっとあの、話に聞いた月の廻る世界へと帰っていったのだろう。



誰が舵を取っている訳でもないのに船は自在に動き、本来の海──北の大陸と南の大陸の間の海峡へと滑るように流れ出た。今の水位よりずっと高いところを航行していたので軽い衝撃はあったけれど、大きな問題はなかった。振り返ると記憶の海が静かに消えていくところだった。
前を見れば大海原が広がる。これで西の大陸へ、そして世界のどこへでも行ける。強い潮の香りを含んだ風が私たちの頬を撫でて吹き過ぎていった。
行きましょう、新しい希望を胸に、新しい場所へ。そして──何かが私を待っているような気がする。良くも悪くも旧い考えを変えざるを得ないような大事なことが。
それでもきっと立ち向かいましょう。心に歌のある限り負けることはないと信じている。あの記憶を取り戻したように、トロデーンの皆の元の生活を取り戻せると。


                                    (終)




2014.4.11 初出









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