湖畔の幻影




エイト、どこに行ってしまったの。
七人の賢者の末裔の最後の一人、サヴェッラの法皇様をお守りしようと館に乗り込んだあなたは帰って来なかった。一緒に行きたかったのに、
「危ないのでどうかこちらでお待ちを」
と言われて船で待っていたのに。
業を煮やしたお父様が危険を冒してサヴェッラの門前町で聞いて来た話は最悪の結果だった。
「法皇様が襲われた」
「真っ黒な犬とそれを操る四人の旅人に」
「ニノ大司教が裏で糸を引いていたらしい」
「あわやという時にマルチェロ様がお助けしたらしいが、その夜更けに崖から落ちてお亡くなりに」
「滅多なことは言えんが、胸に刺し傷があったとか」
「何ということじゃ…」
フードを目深に被り人ならぬ肌の色を見せないようにしながら人々の噂話を立ち聞きして来たお父様はがっくりとうなだれていた。
「暗殺の疑いを掛けられておってはただでは済むまい。…いや、教会は死罪を公には認めてはおらんからそれだけはあるまいが…」
そう、公には死罪はない。けれども拷問はあるという。そしてそれによって死んでしまっても罪には問われない。異端審問など最終的には「悔い改めて神に召されし」と公表されるけれど、それはつまり拷問によって亡くなったということ。
さらにトロデーンにはなかったけれど、数百回もの杖打ち等死罪同然の刑もあるとか。対外的には死罪はないけれど余計に陰惨な刑ばかり。私も、お父様も口にはしなかったけれどそれを恐れていた。どんなに強くてもエイトたちは只人、もしそんなことになっていたなら…
ああ駄目、そんな暗いことを考えては。でも、私、エイトを失ってしまったら生きて行けない。
お願い、無事でいて!

              ※          ※          ※

漸く煉獄島に送られたという情報を掴むことができた。生きてはいるのだと安堵したもののしかしそれは困った事態だった。そこは教会の管轄地、世俗の権は及ばない。この姿ではどうにかしたくともどうしようもないのだけれど。
迂闊に島に近付くことはできず、成す術もなく沖合から様子を窺う日々が続く。異変があればすぐに行けるように。
そんな状態が一週間程続いたある夜のことだった。
私はいつの間にか湖の畔に立っていた。トロデーンの城門からすぐの木立の中にある小さな湖に。懐かしさに二、三歩踏み出して人の姿に戻っていることに気付く。
こんな時はエイトに逢える。誰の目を憚ることなくエイトだけを見詰めることができる。安否の分からないあなたの消息を聞くことができる、と嬉しくなって辺りを見回した。
湖の向こう側、木立の中に赤いものが見え隠れしている。そう、あれは私が贈ったバンダナ。渡した時にあまりに素っ気無かったので、嫌だったのではと密かに恐れていた。
でもあの災厄の後、旅姿で現れたあなたの頭にはあのバンダナが巻かれていた。そして、
「どこまでもお供いたします」
と言ってくれた。呪われて悲しく辛い思いをしていたはずだったのに、舞い上がらんばかりに嬉しかったことを覚えている。
エイトだわ、間違いなく。こちらに背を向け潅木に半分隠されていても分かる。でも何をしているのかしら?ぼんやりしているのなら驚かしてしまおうかしら。
と、なるべく音を立てないようにして近付く。どうやって驚かそうかと考えていたけれど、はた、と足が止まった。
エイトは一人ではなかった。さっきは見えなかったけれど斜後ろのこの角度からならば見える。こちらに背を向けるエイトの胸にはゼシカさんがしっかりと抱かれていた。いいえ、抱いていただけではない。二人は…口づけを…交わし合っている…
その瞬間頭の中が真っ白になってしまった。とりあえずその場を立ち去らなければ、と身を翻した途端、うっかり小枝を踏んで予想以上に大きな音が響く。はっと口を覆う私と何事かと顔を上げたゼシカさんの目が合ってしまった。
「ねえ…」
「ん?」
「姫様が見ているわよ」
逃げたかった。けれども根でも生えてしまったかのように脚が震え動かない。
「気にしないでいいよ。どうせ馬でしょ」
続くエイトの言葉が私の血を凍らせる。
「ううん、人の姿になっているわよ」
「だから何?自分で『エイトにはエイトの人生があるのよ』って言ってたくせに夢の中まで追い回されてうんざりしているんだ」
凍りついたように動けない私の身体を言葉がさらに鞭打つ。
「見せつけてやろうよ。もう二度と僕たちの邪魔をしないように」
「いやぁん、エイトったら、いやらしいんだからぁん」
「旅が終わったら結婚しよう。だから、さ」
もう駄目。全身の力を振り絞ってその場から走り去ることしかできなかった。


走って走って、息が詰まり目が眩んで木の根か何かに躓き、叩き付けられるように転んでしまった。でもその痛みよりもさっきエイトから投げ付けられた言葉の方が痛い。
これは夢、不安な私の心が見せるただの幻影、そう思ってみてもただ、辛い。エイトの言葉はどれも本当のことだったから…
私がサザンビークに嫁げばいつかエイトは誰かと結婚するだろう。でも私にはそれを止める権利なんてない。それはエイトの人生なのだから。
頭では分かっているの。でも…
「覗き見するなんていけない子だね、ミーティア」
突然頭上から声が降ってくる。涙を拭うと目の前にエイトの靴があった。
「エ、エイト?」
慌てて半身を起こすとエイトがしゃがんで私の顔を覗き込む。
「ミーティアがいけないんだよ。僕の気持ちも知らないで行ってしまうんだから」
指が顎に掛かる。意地悪な光を湛えた瞳が近付く。
「そうだ、お嫁に行ってしまう前に味見しちゃおうかな」
気持ち悪い。触らないで。
「い、嫌…触らないで…」
「どうして?僕が好きなんでしょ?後生大事に守ってみてもあんなのに奪われるだけなんだよ」
「駄目…」
エイトの顔がますます近付く。
「それっぽく見せる方法なんていくらでもあるんだってね。そうすればいいだけじゃない?」
「嫌よ!触らないで!」
顎に掛かった手を払い除け、体勢を崩した隙に立ち上がる。
「だってあなたはエイトじゃないもの。指一本だって触られたくないわ!」
「ミーティア…」
哀れっぽい声を出して足に縋ろうとする。そんなのエイトじゃないわ!私は裾を払い、一歩下がって叫んだ。
「私の心はエイトただ一人のもの、他の誰にも渡しはいたしません!
さあ、分かったならどこへなりと消えなさい、忌わしい化け物よ!」

              ※          ※          ※

…と、自分の嘶きで目が覚める。私の異変に気付いたお父様が駆け寄って来てくれた。
「姫や、怖い夢でも見たのかの?ほれ、冷たい水を汲んできてやったぞ」
お父様の心遣いが勿体無くも嬉しく、水を飲んだ。その冷たさに心が落ち着く。
でも本当に怖かった。夢であってもあのまま篭絡されていたら、と思うと今更ながら身が震えてくる。
「それにしてもいつまでぼんやり捕まっているつもりなんじゃ。とっとと逃げ出してくればよいものを。姫に心細い思いをさせおって」
ごめんなさい、お父様。こんなことでご心配お掛けして。それでなくても大変な時なのに。
「もう一ヶ月じゃ。ワシはもう待ちくたびれたぞい」
今日も船で島の近くから様子を窺う。何かあったらすぐに駆け付けられるように。
エイト、無事でいて。そして早く戻ってきて。弱った私の心を叱って…

                                  (終)


2005.8.16 初出 






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