春早き水辺の決意



いつも通り、日々の暮らしにささやかな楽しみを与えてくれる散歩になるはずだったのに──


エイトが近衛兵に昇格してからというもの、毎日の散歩が楽しみになった。周囲の人々には気付かれないよう、でもちょっとだけおめかししたいという気持ちのままにドレスを選んでエイトと散歩に行く。今日は近付く春のような淡い緑の絹のドレスを選び、部屋の外に出た。
例の通り、エイトは既に扉のところに控えていた。
「行きましょうか」
例の通り、私も声をかける。
「お供仕ります」
長い廊下を行く私の足音にエイトの重い靴音が重なった。


外が思ったよりずっと暖かかったことに驚かされた。それにこんなによく晴れた空を見るのも随分久しぶりのような気がする。春はもうすぐなのね、と思うと何だかとても楽しい気持ちになった。先のことにはちょっとだけ目を瞑って、エイトが今一緒にここにいるということを喜びたい。そんなうきうきとした気分でエイトを振り返ると、エイトもまた、楽しげな顔をしていた。
「いい天気。もうすぐ春なのね」
でもまだ人目がある。自分の気持ちを抑えてできるだけ問題のなさそうな話題を選んだけれど、それでもやっぱり声は弾んでしまう。
「左様でございます」
いつも通りの礼儀正しくも他人行儀な返事だったけれど、エイトの声もまた、明るい。同じ気持ちなのかしら、と思うと余計嬉しくて楽しくなった。
「ですが城壁の上は風が強いようです。今日は庭を中心に廻られては」
確かにそうかもしれない。エイトの視線の先で尖塔の先の旗がはためいている。
「そうね。そうしましょう」
そう答えると、春早く花をつける木々のある木立の方へ足を向けた。
「…近衛の仕事には慣れたかしら?」
木立と茂みに阻まれて、大声でなければ他の人に話を聞かれる心配のないところまできた時、私は口を開いた。
「…はい」
いつもは口の重いエイトも、珍しいことに少し話をしてくれた。
「まだ近衛の制服には慣れておりませんが」
「まあ。うふふ」
エイトの答えに思わず笑みがこぼれる。
「そうね。確かにその制服は大変そう。でもちゃんと…」
似合っているわ、という言葉は唇の上でかき消された。すぐ側で甲高い笑い声が上がったから。素知らぬ顔を作って、見てはいない梢を見上げるふりをした。エイトもまた、いつもにも増して厳しい顔をして茂みの向こうを透かし見る。
「どうやら水場で洗濯をしている者がいるようです」
思っていたよりもずっと、庭の外れまできていたようだった。
「仕事の邪魔をしては悪いわね。庭の方へ戻りましょうか」
そう言ってドレスの裾を捌こうとした時、耳に飛び込んできた言葉が私の足を止めさせた。
「…やっぱり近衛隊って花形よね。みんな美形でさー、憧れちゃうわ」
「そうそう。あわよくば…なんちゃって!」
「きゃーっ、あなたったら積極的ー!」
「だってみんな貴族さまなんでしょ。上手くやったら奥方さまよ!頑張っちゃうわ!」
メイドたちが洗い物をしながら無邪気に話をしている。楽しげなことは分かったけれど、どこか聞き苦しくて耳を塞ぎたい。この場を離れてしまいたい。でもなぜかそれもできずにただ立ち尽くしていた。
「でも大抵の方には婚約者がいらっしゃってよ」
とどこか思慮深げな声が割って入ってきた。
「ご立派な家柄の方は、早いうちから婚約なさるって」
「婚約者がなによ!」
と最も騒いでいた甲高い声─聞き覚えはなかった。きっと新しく来た人なのかも─の娘が反論する。
「お貴族さまってだけの頭の回転の鈍い女になんて、負けないんだから!それにそんな大貴族だったら、結婚しなくてもお手当てもらえるんですってよ!」
「まあ、そんな!」
さすがに周りの娘たちも非難めいた声を上げた。
「よくないわ、そんなの。だったら最初から誰も決まっていない人を選べばいいじゃないの」
「そうよそうよ、あっ、ほら、この前近衛になったあの人はどう?エイトって言ったかしら」
急にエイトの名が出たことにぎくっとしたけれど、振り返って顔を見る勇気はなかった。
「嫌よ、そんなの!だってあの人庶民じゃない」
なんて酷いことを言うの。それにこんな聞き苦しい会話を聞いてしまって、エイトはどう思うかしら。仮にもここで一緒に働いている人だというのに。
「酷いこと言うのね。エイトはよく働くし気が利いていい人じゃない。近衛の給料は結構いいのよ、手伝いの人を雇ってそこそこ楽にやっていけるくらい。庶民だって問題ないわ」
聞き覚えのある声─多分、部屋の掃除で何回か来た人だと思う─が厳しい調子で言った。
「私はね、貴族さまになりたいの。毎日絹の服を着て遊んで暮らすのよ。自分で働かなくちゃならない庶民なんてもううんざりだわ!」
(もういい!)
余りの言い草に我慢できず、手荒くドレスの裾を捌く。と、抗議の声なのか警告なのか、笛のように鋭い音を立てて衣擦れがした。その音が聞こえたのか水場が静まり返る。でももうそのようなことには構うことができず、ただその場を離れることばかり思って足を動かしていた。
もうエイトの悪口なんて聞きたくない。それに顔も知らないそのメイドもとても嫌だった。誰なのか分かったらきっと、酷いことを言ってしまいそうなくらい。そんなことはいけない、って分かっているのに。
それに自分も嫌だった。エイトを近衛兵に昇格させてそんな悪口を言われる原因を作ったのは自分だということが。ただ一緒にいられる時間が長くなる、という身勝手な願いだけでそんな立場にしてしまった。今はたまたま聞いてしまったけれど、他にももっと酷いことを言われているのかもしれないのに。
「姫様」
色々な思いで頭の中がいっぱいになってしまった時、背後から静かに呼びかけられた。
「どうかお静まりを」
エイトの声に応えて、足を止める。
「でも」
「そのように無闇に歩かれてはお身体に障ります」
「でも!」
何と言えばいいのか分からなかった。
「…ごめんなさい」
ようやく搾り出した言葉はこれだけ。これ以上何か言うと涙も一緒に出てきそうだった。
「姫様」
長い時間無言のままだった後、エイトが口を開いた。
「僕は気にしておりません」
「でもあのようなことを言われるなんて」
「最終的に近衛になる道を選んだのは、僕です。貴族でもない身で近衛兵になれば受けるだろう嫉みも悪口も全部覚悟の上、トロデーンのために剣を捧げると誓い申し上げました」
エイトは静かな口調で話す。まるでさっきのことなど何でもないかのように。でも私にはそれが余計辛かった。自分のせいでエイトにそんな決意をさせてしまったことを思い知らされて。
「エイト…。本当にごめんなさい。ミーティアが間違っ」
「間違ってなどおられません!」
はっとするほど激しくエイトは私の言葉を遮ると、驚いてただ眼を見開くばかりの私の前に臣従の誓いを述べるかのように片膝をついた。
「どうかそのようなことを仰らないでください。本当ならば叶うことのない願いが叶い、こうして…側近くお仕え申し上げることができるのですから」
「エイト」
「僕が近衛兵であることがお嫌でしたら何にでもなりましょう。ですがどうか、どうか最期までこの剣を捧げることをお許しください。そればかりが今の僕の願いです」
しん、とばかりに沈黙が降りた。同い年のはずのエイトが何だかとても大人のように感じて、何をどう言えばいいのか分からない。自分がわがままなばかりの子供のように思えて恥ずかしかった。
「…エイト」
その名を呼ぶ。ただそれだけのことなのにとてつもなく重かった。きっとエイトの決意の重みだったのかもしれない。
「その願い、許しましょう」
ならば、私も受け入れましょう。エイトと同じ決意を。
「最期まで、受け入れます」
途端にずしりと重いものが心に圧し掛かる。人一人分の誓いの重みが。でも、いいの。その重みが分からない者にはなりたくない。
そのまましばらく、黙り込んでいた。決意を胸に刻み込むだけの時間が必要だったから。
「…風が強くなってきたようです」
ひっそりとしたエイトの声が沈黙を破った。立ち上がって膝の埃を払っている。
「そうね。戻りましょうか」
何事もなかったかのように私も応えて踵を返した。


軽やかに思えて選んだドレスはまだ冬のままの風の前に頼りなく、すっかり冷えていた。暖かそうな日差しに浮かれていた自分が恥ずかしかった。たった今、自分の子供っぽさを思い知らされたこともあって、余計に。
わがままな子供でるのはもう嫌。人のためになるように、ちゃんとものを考えられるようになりたい。一体どうしたらそんな人になれるのかしら。今は思いつかないけれど、ずっと考えることにしましょう。そうすればいつかきっと、答えが見つかるはず。
きゅっと唇を噛むと、できるだけきびきびと足を運び始めた。何となく、そういう方はさっさと動きそうに思える。今すぐ立派な人にはなれないけれど、せめて外側だけでもなりたかったから。
「エイト」
慣れない早歩きに息が切れそうになりながらも、後ろのエイトに呼びかける。
「はい」
「ミーティアがちゃんとした人になれるようにいつも見張っていてください。わがままを言った時は遠慮なくそう言って」
肩越しに振り返ると、エイトの視線と絡み合った。
「はい。必ず」
「ありがとう」
再び前を向く。優しくも強いエイトの眼差しを心に刻んで。


本当に、ただの散歩のはずだった。けれども後悔はしていない。自分のわがままさ、子供っぽさを知ることができたのだから。
いつか、いいえ、必ず、誰かの悪口やわがままを言わない、ちゃんと人のことも考えられる人になるから。お願い、エイト、見ていてね。


                                          (終)



2009.2.6 初出




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