月光の幻



私の目の前には月の光を受けて輝く小さな水晶の壜がある。
掌にすっぽりと収まるその壜は、香水壜のようにも見えるが、そうではない。無色透明のその中身は、眠り薬。飲み下せば三日三晩死人のようになって眠り続けるという水薬だった。
かつて、敵国だったサザンビークの王子と恋仲になられたお祖母様は、定められた相手との婚礼を拒もうとこの薬をお召しになった。もしかしたらどうにかして伝手を見つけて文を交わし、城を抜ける手筈だったのかもしれない。
薬の効き目で死んだように眠るお祖母様を見つけたおつきの方々はてっきりお亡くなりになったものと思い、うろたえ騒いだものの、亡骸をそのままにおいておくことはできない。仮の棺に納め納骨堂へ運ぼうとしたところでお祖母様のお父様─私にとってはひいお祖父様─がお気づきになられた。
「姫は薬によって眠っているだけである」
と。
お祖母様は錬金の名手であられた。しかしひいお祖父様もそれは同じで、娘が何を調合したのか残された薬草からお察しになられたのである。言いつけられた通り、周囲の人々はお祖母様を常の寝台に横たえて薬の効き目が切れるのを待ったのだった。


目覚めたお祖母様は、見慣れた寝台の天蓋が目に入って計画の失敗を悟られたという。けれどその後、その件については一言も言うことなく定められたお相手─お祖父様を婿君に迎えられたのだった。
けれど、もしうまくいっていなら…
ふと、何かの映像が脳裏に浮かぶ。何処とも知れぬ川辺、夥しい数の花々が一群れとなって流れている。せせらぎの音ばかりのその中、花に埋もれるようにして流れる女─あれは、私。髪は流れに踊り、水に裾が翻ろうと気にも留めず流れにたゆたう。それもその筈、あの私は生きていない。きっと薬を飲んだものの、そのまま目覚めることができなかったのだろう。
何か憧れにも似た気持ちで、描き出された情景を見ていた。流れ着くその先は──でもその道は選ばない。
私の手が壜へと伸びる。よそ事のように指が壜を倒すのを見ていた。月光の下、静かに零れ出た眠りの薬は真珠色に優しく光っていた。眠りの慰めをもたらすかのように。
私の命は私一人のものではない。たくさんの人々の─そしてエイトの、手によって助けられているのだから。ならばせめて、自分の意思で選びましょう、サザンビークへ行く道を。トロデーンを─あなたを、守るために。
「さようなら…」


ただ一つだけ、許して。かつて逃げるあなたを詰ったことを。私もまた、あなたの心から逃げるのだから。


                                                  (終)



2007.4.11 初出 









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