愛の妙薬





トロデーンの宝物庫には幾巻かの書物が収められている。宝物が儀式等で時折持ち出されるのに対し、それらの本は一度たりとこの場所を動くことなく今日に至っていた。
ここにある本を紐解くことができるのは宝物庫の鍵を持つ者、この国の王ただ一人。それほどまでに厳重に保管されている本の内容は、歴代の王たちが見出した錬金の中でも特に危険と見なされる物についての処方が記されている。持つ者に災いをもたらす道具や、強大な破壊力をもつ武器、そして人の心を操ることができる薬など、他人に見せて余計な危険を招く可能性のあるものをひっそりと隠していたのであった。
それらの本を前にして、トロデ王は逡巡していた。
(作るべきじゃろうか。いやしかし…)
開かれた頁には、愛の妙薬の処方。割合頻繁に見られていたのか、頁の端がやや黒ずんでいる。
王族の結婚はそれ自体が政略である。領地を併合するため、和議を結ぶため、とそこに感傷的な要素が入る余地はない。それでも少しでも相手に対して優しい感情を抱けるように、あるいは抱かせるようにと考え出されたものだった。
最初は年の離れた公爵に嫁ぐ姫のために作られたという。その効き目は絶大で、婚礼の席でこの薬を落としたワインを飲んだ姫は年老いた新郎をたちまちのうちに愛し、終生変わらぬ愛情を捧げたという。
(確かに効くのじゃろうが…)
トロデ王は迷っていた。サザンビークとの婚礼の日は迫っているというのに、当のミーティア姫がそれを望んでいないことは父として感づいていた。それを押し隠そうと明るく振舞おうとする姿が痛々しい。
(あの者では…無理もないのじゃが…)
トロデ王もその心が分からない訳ではない。むしろ、未来の婿を疎ましく思っていた。だが、これは国と国とのこと。トロデーンの民たちの幸福を願うなら婚約破棄などできる筈もなかった。ならば、あのような者であったとしても慕わしく思えることがあるのならば少しは気も晴れようかと思ったのだが…
(どうにも気が進まんのう)
薬なんぞで愛しい娘の心を操るという考えがこんなにも嫌な気持ちにさせられるものなのか、とトロデ王は思う。それにこの薬には重大な欠点があった。
かつて、とある娘との婚儀を望んだ王子が無理やりこの薬を相手に飲ませたことがあった。娘は他の者と堅く言い交わしていたのだが、薬は確かに効いて王子との婚儀を承諾したのである。しかし、晴れの新床で王子が見たものは身体中から血を流して死んでいる娘の姿だったのである。
(薬を、受け付けぬ者もおる─)
薬によってもたらされるものは愛ではなく、「この者を愛している」という思い込み。愛の模倣は一時勝利したものの娘の中にある強い想いに阻まれて行き場をなくし、体内で暴れ狂って死をもたらしたのであった。
(ワシの目に狂いがなければ…薬を与えればミーティアも同じ道を辿るじゃろう)
あの決戦の前、泉での姫の言葉に確信していた。
『決して、死なないで』
淡く儚い想いなどではなかった。ミーティア姫がエイトに対して好意を持っていることは気付いていたが、予想以上に深く、強く根を張ってしまっていたことを悟ったのである。そんな中で薬を使えばどうなるか、王には容易に想像できた。
(エイトのバカタレが。なぜあの時正直に言わなんだか)
本を閉じ、思い返す。エイトへの褒美は何者に反対されようと、望みさせすれば何でも─例えミーティア姫との婚礼であっても─与えようと決めていた。だが、当のエイトはただ、今まで通りトロデーンに仕えることを願い出たのである。
(まあ、叛意を疑われていると思ったのかもしれんが。うう、ワシもワシじゃ、もう少しましな言い様があったかもしれんのに)
実際、家臣の中にはその力故にエイトの将来の叛意を疑う者もいた。ならば、とそれを逆手に取って姫の婿に、と思っていたのである。
だが、一瞬の躊躇いの後にあまりにきっぱりとトロデーンへの仕官だけを願い出たため、話の継穂を失ってしまったのである。何とか追求してもう一つ願いを引き出したのだが、それも何とも皮肉なものだった。
(あのバカタレが。そんなことはおぬしがしゃんと願い出ればすっきり解決するものなのじゃぞ)
エイトのもう一つの願い。それは、
「ミーティア姫の幸せを」
だった。
(バカタレが…)
トロデ王は一つ、大きな溜息を吐く。それはただ、宝物庫の厚い岩壁に吸い込まれていくばかりだった。


                                                (終)




2007.4.22 初出









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