春のめざめ




どことも知れない、小川のほとりだった、あの方が苔生した土手の上に横たわっていたのは。
「姫様」
静かに呼びかけたけど、目覚める気配はない。
「姫様」
もう少し近付いて、さらに呼び掛ける。ただ眠っているだけであることは、微かに上下する胸で知れた。
「ミーティア…姫様」
ふっ、とあの方の名が口から転がり出て、慌てて敬称を付け直す。もうずっと、十二の時からあの方をお名前でおよびすまいと決めていた。幼馴染ではいられない、もう主君の姫と従僕なのだから、と。そうやって心にけじめをつけていたのに。
「ミーティア様…」
久々に自分の口から出たあの方の名は、何か美しい音楽にも、祈りにも似て響いた。そうなるともう、何度でも呼ばずにはいられない。
「ミーティア様…」
本当は、知っている。あの方─ミーティアが僕に名前で呼んでほしいと思っていることを。でも、敢えてそれをしないことで分かってほしいと思っていたんだ。僕たちはもう、子供じゃない。臣下が主君の名を気安く呼ぶなどということは無礼に当たるのだから。
そして…本当は…あの方が望んでいるだろう、幼馴染の友だち、という立場が苦しかった。もし、許されることなら、僕は…
危うい方向へ思いが傾いたことに気付き、頭を振ってそれを追い払おうとする。が、ふとミーティアに眼をやった途端視線が外せなくなってしまった。
何か、幸せな夢を見ているのだろう、口元に微笑を湛えている。そのふっくらと美しい曲線を描く、薄紅の薔薇の花びらのような唇に目が留まってしまった。
あの唇はどんな感触なんだろう。触れてみたい、僕の唇を重ねてみたい。恋人たちがしているように。眠りを乱さぬよう、そっと重ねるだけなら──
ふらふらと一歩踏み出した時だった。何かが自分の中でずれたように感じた次の瞬間、自分の背中が目の前にあったのである。
あまりのことに声も出ず、棒立ちのままの僕を置いて僕のような者はミーティアに近付く。傍らの草地に膝を付くと覆い被さるように身をかがめ、まさに僕がしようとしていたように唇を重ねた。
止めろと怒鳴りたかった。例え自分と同じ姿をしていたとしても、ミーティアが自分以外の何者ともそういうことをしているのを見たくなかった。でもなぜか、声も出せず身体を動かすこともできない。
これは夢だ。それもとても悪い。眼を覚まそうと意識さえすれば、何もかも消え去る筈だ。靄のかかったような頭の隅でそう考え、必死で頬を抓る。でも、摘むだけじゃなくて力を込めて捻っている筈なのに、痛みすら感じない。
その僕の前で「僕」の手がミーティアの身体に触れた。無礼を咎めることもできず、ただその手が柔らかく小高く盛り上がった胸を掴むのを見るばかり。「僕」の手が動く。その動きに合わせてミーティアの胸も形を変える。込み上げてくる衝動に耐えつつただ見守るだけしかできない僕の耳に、ミーティアの小さな吐息が聞こえた。いつもの少し悲しげな溜息ではなく、どこか甘く響くその吐息に身体の芯が震える。
「ミー……ティ………ア…」
漸く搾り出した言葉につられるかのように、「僕」はミーティアのドレスの裾に手をかける。と、見る間に手はドレスの中に滑り込んだ。布に遮られているが、布の動きからドレスの下で手が動いていることが分かる。その手がだんだん上の方へ這い上がって──
「やめろ!」
叫ぶと同時に呪縛が解けた。弾かれたように飛び出し、力いっぱい「僕」を突き飛ばす。
「やめろ!ミーティアに触れるな!」
そう叫んでミーティアを胸の内に抱き締める。全てのものから彼女を守ろうと。そしてもう一声叫ぶ。が、その途端頭を強く殴られ、僕の意識は闇へと沈んでいった。

            ※             ※             ※

気が付くと、僕は床の上に転がっていた。寝床から落ちて頭を打ったらしい。
荒い息を吐きながら寝床に戻る。ここはトロデーン城の兵舎、僕に割り当てられた寝床だ。高窓からうっすらと青い光が差し込んで、もうすぐ夜明けだと知れた。眠れぬ夜に寝返りばかり打つうちに、いつの間にか浅い夢に入り込んでいたようだった。
掛布を頭から被り、きつく眼を閉じる。たった今見てしまった夢を追い払おうと。けれども眼を閉じれば閉じる程、あの感触が腕に甦ってくるように思えてならない。
僕は、何と叫んだか。ミーティアに圧し掛かっていた僕のようなものは何だったのか。
あれは、紛れもなく僕だった。自分の心の中に潜む、意識しつつも眼を逸らし続けていた後ろ暗い部分だった。あの方を敬愛し誓った通りに忠誠を捧げようとする度に首をもたげる、あってはならない想い。想うままに抱き締め、口づけし、そして──
何をどうしたいと望んでいるのか分からぬまま、でもそれが抱いてはならない望みだということだけは分かっていた。あの方に捧げるには汚らわしいとしか思えない想い。衝動的に突き動かされてしまいそうになる、抗い難い感情。それが今の僕の中にある、あの方への想いだった。
かつて抱いていたようなただ目と目が合うだけで嬉しくて、手が触れただけで躍り上がるような気持ちはどこへ行ってしまったのだろう。いつからこんな薄汚い感情に支配されるようになってしまったんだろう。
いっそ、思い切ることができるのなら、こんな苦しい思いをしなくて済むだろうに。それができずにいる自分の弱さが憎らしかった。
『ミーティアは、僕のものだ』
あの時、僕はそう叫んでいた。もうすぐ他の人と結婚してしまうのだと分かっているのに。只の平民に過ぎない僕が王族であるあの方と結ばれる日なんて絶対来ないのに。


あの方を恋い慕いながら、僕の心は汚れていくだけなのか。夢の中ですら、ひたすら純粋な想いを捧げることはできないのか。
ならばいっそ眠るまい。あの方が行ってしまうその日まで。


                                            (終)




2007.6.19 初出









トップへ  目次へ