朝に歌う





朝に歌う




いつもと違う冷ややかさに、目が覚めた。
すっかり馴染んでしまった、エイトの腕の感触。それがない。
いつもなら、
「起きるから、離して」
と言ってもいやいやするように首を振ってなかなか離そうとしない、エイト。もう離れることなんてないのに、どうしてか寝覚めの時だけはいつも私の身体にまとわりついてくる。
「もう朝よ。お仕度のメイドさんたちが来てしまうわ」
と恐い顔をしてみても、
「今日は病気なんだ、お休みにしてよ」
と甘えようとする。
「どこか痛いの?薬湯を飲んでみる?」
最初のうちは心配してそんなことを言っていたのだけれど、
「恋の病なんだ、それもすっごく重い。だからミーティア、傍にいてよ」
なんてことを毎回言うのですもの。最近はもう慣れっこになって、
「早く起きないと今日一日ミーティアはエイトとお話ししません」
と、ぷい、と顔を背けるようにしている。そうするといかにも渋々、といった顔で離してくれる。
なのにどうして、今朝に限っていないのかしら。
とりとめもなくそんなことを思っていると、隣の部屋から物音がすることに気付いた。あれは、ピアノの音?大きな音が出ないようにしているけれど、きっとそう。ではエイトが弾いているのかしら。
でもエイトは自分からピアノを弾いたり歌を歌ったりすることはなかったのに。
「一緒に歌いましょ」
と誘っても、
「僕音痴だし。ミーティアの邪魔になっちゃうから、いいよ」
と言っていつも逃げてしまう。歌うための練習をしていないから声が平たいだけで、決して音痴っていう程ではないのだけれど…
どうしても気になって、枕元のガウンを夜着の上に羽織ると扉をそっと開けて様子を窺った。
「あ、おはよう、ミーティア。ごめんね、静かにしようとしてたんだけどやっぱり起こしちゃったね」
こちらが声をかけるより速く、ガウンを羽織っただけのエイトが振り返る。その微笑みはいつもと全く変わらなくて、ちょっと戸惑ってしまった。
「あ、お、おはよう、エイト」
と何とか挨拶を返したものの、何と切り出したらいいのか分からない。
「あの、ええと、どうしたの?」
「ああ、ピアノね」
エイトは初めて恥ずかしそうに笑った。
「今朝、目が覚めて、朝の光やミーティアの寝息や色んなものを感じていたら急に嬉しくなって。部屋の中を踊り回りたいくらいに」
「まあ」
思わずくすっと笑いを漏らした私に、
「笑わないでよ」
と釘を刺し、続けた。
「分かってるよ、いくらなんでも子供みたいだって。でもこのこみ上げてくるような嬉しさをどうしたらいいのか思いつかないし」
「それでピアノを?」
「うん。とりあえず部屋の中をぐるぐる歩き回っていたらピアノが目に入ったんだ。その時にミーティアがよく、自分の思うままに弾いていたっけって思い出してさ。真似して弾いてみたんだけど、やっぱり上手くいかないね」
と肩を竦めると鍵盤の蓋を閉めようとした。
「あ、待って」
その手を押し止め、もう一度蓋を開けた。
「一緒に歌いましょう」
「え、あ…」
エイトは一瞬躊躇ったけれど、
「ね?」
と言うと、
「…うん」
と頷いて一緒に椅子に座ってくれた。
「何がいいかしら」
どんな曲がいいのかと考えながら鍵盤に手を置こうとした時、横からすっと掴まれた。
「え?」
「指を拭かなきゃ。いつもそうしてたよね?」
そう言いながらエイトが傍らのハンカチに手を伸ばす。
「あっ、忘れていたわ」
手を引き抜いて自分で拭こうとしたけれど、離してくれない。
「いいよ。僕が拭いてあげる」
そこまで言われてしまうと断れない。そのままエイトに手を委ねた。
エイトが私の手を拭う、優しく、丁寧に。爪の間までも、愛おしむかのように。その時、私の中の何かが震えた。胸の中の何かが。それはたちまち身体の中を駆け抜け、一瞬気が遠くなる程強く魂を揺さぶった。エイトにとってはただ手を拭くというだけの行為だったかもしれない。でも私にはそれが例えようもなく嬉しかった。まるで私がエイトの宝物になったかのようで。
「…ありがとう」
震える心を隠すようにエイトに微笑みかけ、手を引き抜くとそっと鍵盤の上に置く。その途端、すっと心に歌が生まれた。
「知っているわよね、あの歌」
「あの歌って?」
エイトの問いに笑って答えず、前奏を弾き始める。最初は怪訝そうにしていたエイトも、旋律を聴くうち「ああ」と納得したような顔になった。それは、古くからトロデーンに伝わる民謡。よくお祝いのときに歌われる歌。そういえば、かつて行ったトラペッタのお祭りの時にもそこここで歌われていたっけ。
二人で声を揃えて歌う。私の声とエイトの声が寄り添い、溶け合って部屋に広がる。世界で一番美しい音は、エイトの声。太陽のように輝かしく、海のように深い、その声。エイトは私の声を「世界で一番美しい声」と言うけれど、私はそうは思わない。それは単に歌うための声の出し方を学んでいるからに過ぎない。
「…エイトの声って、大好き」
歌い終わった後、ふとそう呟いてしまった。その言葉にぱっとエイトが振り返る。
「ええっ、そう?僕はミーティアの声の方が好きだよ」
意外そうに言った後、ちょっと遠い目をして続けた。
「…生まれてくる子も、ミーティアに似てるといいな」
「ミーティアは、エイトに似ていたらいいと思うわ」
言い合って、顔を見合わせ噴き出した。
「両方に似てるといいね」
「両方に似ていたらいいわね」
同じことを図らずも同時に言って、こつんと額を突き合わせる。幸せな気持ちがそこから身体中に広がった。
「…そろそろ朝食に行こうか」
「ええ」
窓の外から鳥たちの鳴き交わす声に混じり、働き始めた人々の立てる物音が聞こえ始めた。何ということのない、普段の朝。でもエイトと一緒に迎えるいつも新しい今日の始まり。 いつまでも、こんな幸せが続きますように…


                                                   (終)




2006.7.17 初出 








トップへ  目次へ