花咲く泉の蔭に


緑の木立に隠れるように、トロデーンの泉はあった。
ひっそりと、けれどもこんこんと湧き出した水は城の水場へと流れていく。この場所はちょっと不便なこともあって城で働く者は皆、水場ばかり使ってこの泉の存在はほとんど忘れられており、ただ掃除の時にだけ、思い出されるだけだった。週に一度の非番の日、一人になりたかった僕は兵舎を出てそこに足を向けた。
どうしても一人になりたかった。苦しい想いを抱えたままあの方にお会いするのは辛く、そして人に知られる訳にはいかなかった。それでも心の奥底から湧き上がる感情はあまりに強く、ただひっそりと抱えることも難しい。せめて一人の時だけでもあの方を想い続けていたかった。
あの茂みの横を廻ればすぐ泉のほとりに出る。辺りはただ、泉から流れ出る水の音と梢を渡る風と葉擦れの音ばかりで、しんとした空気を破るのは何となく畏れ多いような気がした。物音を立てないようそっと藪の横を通り抜けた。そして、足が止まった。
泉には先客がいた。木立から洩れ落ちる柔らかな光の輪の中に、白いドレスが一際輝いて見える。たおやかな手で辺り一面に白く咲く野薔薇を編むその横顔に、長く艶やかな黒髪がはらはらと零れかかる。俯いているため眼の色は見えないけど、僕はそれを知っている。その美しい碧の眼がこちらにむけられた。
──エイト。
眼差しが、僕の名を呼ぶ。
ミーティア。
僕もまた、その名を呼ぶ。ただ、心の中だけで。声に出した瞬間、全てが終わる僕たちの想い。けれども心の中だけならば、妨げるものは何もなかった。ほんのわずかな一瞬さえあれば、想い続けていくことができた。
ミーティアの瞳が僕を映す。僕の瞳もまた、ミーティアを映す。互いの姿を映し合っただけなのに、ただそれだけで魂の全てが結び付けられていくような気がした。
ミーティア。
ただひたすらに、心の中でその名を呼ぶ。まるでそれしか頭にないかのように。いや、本当にそれしか考えられなかったのかもしれない。ミーティアへの溢れる想いを叫ぶ代わりにただ、心の中でその名を呼び続ける。
エイト。
眼差し一つで、あなたは僕の名を呼び続ける。同じ石から切り出された玉が引かれ合い呼び合うように、一歩、また一歩と近付いていく。このまま、そっと──
けれども、歩みは止まった。これ以上進んではならない僕たちの想い。互いに見つめ合って、そしてミーティアは手にしていた赤と白の花の冠を僕の頭に載せ、横を通り過ぎて行った。
ミーティア。
声にならない想いが僕の中を駆け巡る。頭に載った花冠に触れると、野薔薇の柔らかな棘が指を刺した。どんなに恋焦がれても、何も望んではならないと改めて思い知らすかのように。
ミーティア。
辺りには白い花しかなかったのに、その花冠の薔薇は所々赤く色づいていたのはどうしてだったのか。ミーティアもまた、ただ想うだけの想いに堪えかねてあの花冠を編んでいたのかもしれない。想いはどんなに自由でも、表に出すことはできないのだから。
ミーティア。
辛い想いなら諦めてしまえ、と人は言う。それでも、僕は──



                                                  (終)



2008.4.30 初出









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