運命の輪




灯火が静かに揺れる。階下の大広間ではまだ祝宴が続いているようだったけれど、その喧噪はここまでは響いてこない。
一日中着ていたドレスを脱ぎ、新しい夜着とガウンに袖を通す。ずっと身体を締めつけていたコルセットから解放されてほっとした。メイドさんが温かなハーブティーを煎れてくれ、寛いだ気持ちになる。
椅子に身を沈め、昼間あったことを思い返す。長い旅の中で出会った人々との再会と祝福、美しい楽の音と踊る人々、嬉しそうな父王の顔…たくさんの心配をかけてしまった父が楽し気に人と話し、ジグを踊り、盃を掲げている姿を見ることができて、本当によかった。そしてエイト…
エイトは着慣れないはずの礼装を凛々しく着こなしていた。玉座の間への扉が開いて顔を上げた時、通路の先の祭壇の手前にエイトが立っていた。初めて見るエイトの礼装…でも衣装負けするどころか生まれながらの王のような気品があって、思わず目を伏せてしまったことを覚えている。
式の中エイトが手を取り指輪を薬指にはめてくれた時も、誓いの口づけを交わした時も、その後の祝宴で一緒に踊った時もなぜか直視できずにいた。それでもちらと様子を窺うとエイトは微笑みかけてくれる。その笑顔がとても眩しい。強く晴れやかで、でもまともに見詰めれば眼の奥を焼き尽くす。真夏の太陽のように。
そんなエイトと結婚したのだ、と思うと自分の身の内に喜びがしみじみと広がっていく感触を覚えた。何年も想い続け、一度は押さえ付け封印しようとした想いは無駄にはならなかった。生きながら死んでいるような運命から解放され、真に慕わしく、心からの愛を捧げている人とこの先の人生を歩んで行ける、ということがただただ嬉しかった。
温かなハーブティーを飲みながらそんなことを思っていると部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
と答えると、扉が開いてエイトが顔を覗かせる。
「遅くなってごめん。ククールとヤンガスに捕まって色々からかわれちゃったんだ」
そう言いながら部屋に入ってきた。
「まあ、何て言われたの?」
エイトは礼装のままだった。私は急に薄物しか身に着けていないことが気になりだした。
「いや、その…あんまり覚えていない…けど」
珍しくエイトが口を濁す。その頬は燃えるように赤い。
「大丈夫?お酒で気持ち悪くなったのではないかしら。ハーブティーでもいかが?」
隣の椅子を勧めるとエイトは頷いて腰掛ける。
「あ…うん、いただきます」
用意されたハーブティーを口にして、エイトは漸く人心地付いたような顔をした。
「ミーティアこそ、大丈夫?今日は一日、長かったでしょう」
エイトが自分の名を呼ぶ。「ミーティア」と呼んでくれなくなってもう何年過ぎたことか。最後に私の名を呼んでくれた時、エイトの声はまだ甲高かった。
今、こうして呼ばれると全く違った印象を受ける。低く、柔らかな声で「ミーティア」と呼ばれるだけで嬉しい。身体中の血が逆流してしまいそうなくらい。
「…どうしたの?やっぱり疲れているんじゃない?」
物思いに沈んでしまって返事を忘れてしまったらしい。怪訝そうにエイトがこちらを見遣っている。
「…ううん、何でもないの。ただ、ひさしぶりって思って。名前で呼ばれるの」
「そうだね…」
沈黙が二人の間に落ちる。しばらく無言のままお茶を飲んでいるとエイトがぽつりと呟いた。
「長かったね…」
エイトと知り合ってもう十年。その間絶えることなくエイトが好きだった。最初は兄のように、そして気付いた時には自分の心はエイトただ一人に捧げられていた。身分と言う壁に阻まれ想いを伝えられないもどかしさに涙して幾歳月、本当に長かった。
「ええ、そうね、エイト…」
どんなに引き離されても魂は呼び合わずにはいられなかった。エイトを想って幾夜枕を濡らしたことか。でも今日からは…
と、エイトが立ち上がった。
「後は下がって結構です。お疲れ様でした」
はっと気付くとメイドさんが下がっていくところだった。彼女がいたことをすっかり忘れていた自分が恥ずかしい。


扉が閉まってもしばらく私たち二人とも身じろぎばかりしていた。周りの人たちから今夜のことについて何とも釈然としない説明をされて、分かったような分からなかったような気持ちになったけれど、エイトはどうだったのだろう。
確か…一緒の寝台で寝る、とか言っていたような。そういえば子供の頃一緒にお昼寝したりしたことはあったけれど、でもそれとは違うような気がする。それにその後「服は脱いで」「いや、着たまま」とかで揉めていたけれど、あれは何だったのかしら。
「最初は多少辛いかもしれないけれどエイトなら優しくしてくれるだろうから」とも言われたような。エイトはいつも優しいけれど、どうも意味合いが違っているような気がする。それに、え?…辛い?
「あの」
「あのね」
同時に話し掛けて顔を見合わせる。エイトは緊張した面持ちだったし、きっと私もそうだったと思う。それが何だかとても可笑しくなってどちらともなく吹き出した。
「笑わなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい。でもエイトの顔、変だったんですもの」
「そういうミーティアの顔だって」
「エイトったら!」
かつてのように笑いあった後、エイトの顔が静かに近付いてきて唇が重ねられた。
「エイト…」
長く優しい口づけの後、眼を開いた私の前には真剣な眼差しのエイトの顔があった。その黒い瞳が優しく、強い光を湛えて私を見詰める。
「いつまでも、どんな時もミーティアを守る。僕の全てはミーティアのものだから…」
「ミーティアは、エイトの妻になるために生まれてきたの。いつまでもあなたの側にいるわ。ミーティアの全てはエイトのものよ…」
もう一度、口づけを交わす。と、急に肩を抱くエイトの腕に力が込められ、唇を割られ舌を搦め取られた。初めてそんなことをされたのに驚いて身を捩ろうとしてしまったけれど、でも…そんなに嫌なことではない…かも。
「ごめん、嫌だった?」
しばらくして唇を離したエイトが問う。無言で頭を振るとほっとしたように言った。
「嫌だったら嫌って言ってね。正直よく分からないんだ」
「嫌なのではないの…ただ、ちょっとびっくりしてしまって」
何だかこの展開はちょっと怖い。次々と知らないことが起こって、どうすればいいのか分からなくて混乱してしまいそう。
そんな様子に気付いたのかエイトがちょっと笑った。
「怖い?」
正直に答えていいものか迷う。怖いと言ってしまったらエイト自体が怖いのだと勘違いされてしまいそうで。でもエイトの優しい様子に促されて本当のところを話した。
「…怖いわ。何が起こるのか分からなくて。どうすればいいのかも分からないし。
あ、でもエイトが怖いのではないのよ」
そう答えるとエイトはますます笑みを深くした。
「うん、僕も怖い」
「エイトも?」
「そう。すごく不安。お互いの想いを確かめ合うだけなんだよ、って言われたんだ。でも…」
「でも?」
私の問いかけにエイトは私の髪を梳いてくれながらためらいがちに答えた。
「女の人は初めてだと負担があるって聞いて。あっ、あの、できるだけ辛くないようにするけど、でもミーティアにそんな思い、ちょっとでもさせたくないんだ。自分にそれができるか自信なくて」
最後の方は悲しそうだった。私は手を伸ばし、そっとエイトの頬に触れた。
「ミーティアも聞いたの。『最初は多少辛いかも』って。でもそれが想いを交わすことなら喜んで受け取るわ、どんなに辛くても。だってエイトの想いなんですもの」
エイトならば構わない。エイトだから受け入れられる。そんな思いを伝えたい。
「ありがとう…」
エイトは頬に触れていた私の手を取り、そっと口づけた。そのまま私を抱き締める。その胸は暖かかった。まるで日溜まりのような。
「エイト…エイトってお日さまの匂いがするわ」
すると微かに笑う気配がする。
「だったらミーティアはお花の匂いかな」
「お花は…お日さまがなかったら生きてはいけないわ」
エイトがいなかったら生きていけない、そんな想いを込めて言うとエイトも答えてくれる。
「お日さまだってお花の姿がなかったら悲しくて輝いていられないよ」
その言葉に心が震える。私がエイトを必要としているようにエイトも私を必要としてくれている、ただそれだけなのに嬉しさが戦慄にも似て身の内を駆け巡った。
エイトは立ち上がった。手を取られていた私も一緒に立ち上がる。まるで花に触れるかのように優しく唇を重ね合う。優しく髪を梳いていた手が私の髪飾りに掛かり、するりと抜き去った。
留められていた髪がはらはらと額に零れ落ちる。それを梳き遣るエイトの手が心地良い。額に一つ、口づけを落とされたかと思うと今度はガウンを留める胸元のリボンに手が掛かる。微かな衣擦れの音を残してリボンは解けた。
何かを問うようにエイトが私を見詰め、接吻した。あの深い口づけを。それが何であるか分かっていたので今度は怯えたりせず、受けた。最初は何事かと驚いたけれど、慣れてしまうと何だか頭の芯が蕩けそう。ちょっと怖い。自分ではないものになってしまいそうで。
漸く唇が離れた時、衣擦れがした。はっと足元を見るとガウンが滑り落ちていた。口づけに気を取られていたけれど、そう言えばエイトの手が私の肩をなぞっていたような気がする。ガウン一枚脱がされただけなのに、なぜかとても頼り無く剥き出しになってしまったような気持ちになった。
「寒い?大丈夫?」
知らず知らずのうちに震えていたようだった。気遣うように私の肩を抱き寄せてくれる。エイトも上衣を脱いでいて、薄衣を通して温もりが伝わってきた。上着を着ている時は気付かなかったけれど、エイトの胸って意外にがっちりしていて自分の肩幅よりも広い。剣を捌き、槍を扱うエイトがただ細いなんてことはあり得ないのに、なんとなくもっと細いものだと勝手に思い込んでいた。その胸に抱き締められている、と思った途端、急に鼓動が早まった。こんなに激しく脈打っていたらエイトに聞こえてしまいそう。落ち着こうとしたけれど、エイトの腕が離してくれない。
「あ、あ、あの」
「どうしたの?」
「き、緊張して…心臓が壊れそう」
あまりの動悸に言葉も途切れ途切れになる私に、エイトは私の手を取ると自分の胸へと導いた。
「僕も壊れそうだよ。ほら」
指先からエイトの心拍音が聞こえたように思えた。確かに速く強く脈打っていたけれど、とても力強くて頼もしい。なぜか急にエイトが私の側で生きている、という実感が湧き上がった。
「エイト…」
「なあに」
「本当にエイトなのよね。夢ではないのよね」
「夢じゃないよ、全部本物だよ。夢のように消えたりしない。いつまでもミーティアの側にいるよ」
「ええ、そうね…」
今夜からは悲しい夢に惑わされない。現のエイトの腕はこんなにも強く私を抱き、その唇は私の唇に重ねられている。
と、エイトの両手が夜着の肩紐に掛かった。そのまま滑り落とそうとするので慌てて胸元で押さえつつ抗議する。
「えっ、あの、ちょっと待って」
「もう待たない、待てないよ。僕たち何年待ったと思っているの」
「あの、そうじゃなくて、こ、心の準備が…」
そう言うとエイトが笑った。
「じゃあ、僕は後ろ向いているから。心の準備ができたら、振り返って」
私の背後でエイトが服を脱いでいる気配がする。もう何が何なのだかどうすればいいのか分からず立ち尽くしていたけれど、でも話を聞いて思っていたような汚らわしくて嫌な感じはしない。むしろ全てを取り払ったらもっとエイトに近付けそうな気がする。私は心を決め恐る恐る肩紐に手を掛けた…


最後の一枚を取り払って私たちは生まれたままの姿になった。とても恥ずかしかったけれど思い切って伏せていた眼を上げ、振り返る。視線が絡み合った瞬間、お互いにひしと抱き合っていた。
「行こうよ、ミーティア。僕たち二人だけの世界へ」
「ええ、エイト。一緒にどこまでも行くわ」
エイトが私を抱き上げ、寝台へと運んでくれた。寝台の手前で私を降ろすと、今夜幾度目かの─もう数を覚えてはいられない─口づけを交わし合う。エイトの腕に力が込められて二人寝台の上に倒れ込んだ。エイトの身体の重みが不思議に心地よい。
「長かったわ…でもこの物思いはもう終わるのね」
「そうだよ、もう一人じゃないよ…悲しい物思いは昨日で終わったんだ」
口づけを交わしながら囁き合う。もう誰にも邪魔されない二人だけの世界。
私たちの運命の輪が今、閉じる。


                                  (終)

2005.4.1 初出 






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