かつての花、名前、追憶




1.


トラペッタ領主館の豪華な執務室の奥で、ミーティアはほっと小さな溜息を吐いた。午後の執務が一段落し、残った決裁は今一人で決めるには少々重い案件だったので一旦保留とし、休みを取ろうと思ったのである。この後正餐まで来客はなかったことを心の中で確認し──同時にエイトも視察でそれまで帰って来ないことを思い出して少しばかり落胆し──メイドに茶の支度を命じた。


トラペッタは王位継承者の婿の封土として授けられることが慣例となっている。先代の領主がいたのはかれこれ四半世紀も前のことで、それも、これも慣例として領地には赴かず代官を置いて統治させていた。先代の領主──ミーティアにとっては祖父に当たる──が亡くなってからは直轄領となり、引き続き代官がこの地を治めていた。それがこの度世継ぎの御子が女子で結婚したため、その相手であるエイトが封土された。さらに両者とも統治に関して不慣れであることから通例を破って二人で領地に赴くこととなったのである。
とはいえトロデ王も愛娘を手放すことを渋り、月に半分だけのこととなっていた。また、館の準備や引き継ぎが手間取ったのとエイトとミーティアにとって色々とごたごたが続いたこともあって、封土から二年が過ぎて漸く赴任の運びとなったのである。
実務に関してはトロデ王が付けてくれた顧問団が処理しており、領主夫妻がすることは基本的に裁可の印を押し客人を迎えるぐらいのことだった。しかしながら、「よきに計らえ」と言い切って任せるということは意外に胆力がいる、とミーティアは思うようになっていた。領民の願いは多岐に渡り、利害が相対する請願も多い。乱暴な話ではあるが、民を憐れんで租税を軽くしたがために彼らの生活を守るために必要な治水や防犯の財源を失っては元も子もないのである。顧問団はそのような折衝には慣れているのでその辺の心配はないのだが、それでも取りこぼしがあったら、と思うと不安感から何もかも自分で全て確認して決めたい、と考えてしまう。その気持ちを抑えつつどこかに穴はないか、と注意しながらの作業は殊の外神経の磨り減るものであった。


「公妃様、お茶の支度ができましてございます」
以前から教育係を務めていた女官がワゴンを押すメイドと共にお茶を運んできた。「ミーティアでいい」と言ってあるのだが、彼女の中で明確な線引きがあるのだろう、ミーティアが結婚してからは現在の称号に則って「公妃殿下」もしくは「公妃様」と呼んでいる。
「ありがとう。そちらにお願いします」
ミーティアは部屋奥の執務用の重厚な机から立ち上がり、手前に置かれた、野の草花を美しく打ち出した綴れ織りの椅子の一脚に腰を下ろした。
「お召替えはいかがなさいますか」
「そのままでいいわ、まだ少し仕事が残っているの。──もしよろしければあなたも飲んで行って」
「恐れ入りましてございます」
明るく幸せそうな主の様子に、幼少の頃から仕えてきた教育係──現在は公妃付き女官長──は眼を細めた。茶の支度をしながら主の様子をさりげなく窺う彼女の視線の先で、ミーティアはゆったりと椅子に寛いでいる。世間一般の常識から考えるとその服装は華やかさとは無縁だったが、その簡素さはむしろ彼女の持つ気品と美しさを引き立てるものだった。極薄いリネンローンのブラウスは立ち襟にして共布のクラバットが結ばれている。夜空の色に染め上げられたタフタのローブは細い繊細なレースの縁取りがある程度で余計なフリルもサッシュリボンもない地味なものだったが、これは執務用のものであることを考えれば妥当なところだろう。
「いかがなされましたか」
主の口元に微笑が浮かんだのを見て、内輪の気安さからもあって女官長は話しかけた。
「何でもないの。お茶もよく入っているし」
それでもミーティアの笑みは引かない。これは、と思い当たる節のあった女官長は腹を括ることにした。
「エイト様のことでしょうか」
「……」
ぽっと頬を染める様子にやっぱり、という内心を押し隠した。
思えば昔からエイトの話をしようとする時のミーティアは口元がほころんでいて、誰が、という主語を慎重に隠しているつもりであってもはっきり誰のことか分かるものであった。
「あ…エイトはね」
茶碗の中を覗き込みながらミーティアは話し始めた。
「この執務用のドレス、地味過ぎるのですって」
まあそういう向きもあるだろう、と女官長は思った。レースは大変に手の込んだものであるし、濃藍色に染め上げるには大量の染料が要る上にかなりの技術が必要であるため、下々の者が軽々しく使えるものではない。しかしながら一見して分かるような宝石だの金糸の刺繍などはないため質素に見えるのである。
「もっとひらひらしていて、きれいな色の方が好きみたいなの。夜会の時のドレスのような。
これは執務用で誰かに会うためのものではない、って言って押し切ったのだけれど」
「まあ、エイト様は服装には無頓着でいらっしゃるので」
立場上、何十枚ものドレスを持つミーティアと違ってエイトは近衛隊長としての制服各種(通常業務用から大礼服まで)と数着の普段着程度しか持っていない。何かあっても近衛の制服で通そうとするので周囲は困り果てていた。
「もう…誕生日の贈り物は服にしてしまおうかしら」
「それもありかもしれませんね」
と二人は顔を見合わせてくすくすと笑いあった。
「でも本当にどうしようか考えていて」
笑いを収め、ミーティアは言った。
「私の誕生日にあんなに素敵なお庭をもらったのですもの、つまらないものは贈りたくないわ」
「確かにそうでございますね」
そう答えながら女官長は一人そっと笑みをこぼした。王族であるからこそより一層厳しく躾けてきたが、他人を思い遣る心というものは教えてどうにかなるものではない。思い通りにならないことなどなく、何もかも周囲の者が先を争ってまでなされてしまう上に、ちょっとでも他者に物を下せばいかなる物であっても大仰に喜ばれるような環境で何をどう教えろというのだろう。民のため、国のために何が最も必要であるのか考えなければならない地位になろうというのに、このままでは自分の思い通りにしかできない人物になってしまう、とかつての教育係は危惧していた。しかしそこへエイトという存在が現れた。下働きの少年であったにも関わらずミーティアの中で対等の存在だった彼によって、他者を思い遣る心を学んで行ったのである。
「エイト様ならば、公妃様からの贈り物ならば何でも喜ばれるかと思いますが」
それも偽らざる事実だった。何しろ近衛隊の中ではミーティアが使ったハンカチをエイトが大事そうにポケットにしまい込んだ──らしい、という噂がまことしやかに囁かれている。幸か不幸か、女官長はその噂の存在もそれが正確な事実ではないということも知っていた。何のことはない、散歩中にエイトがミーティアにハンカチを貸し、それをまた自分のポケットに戻しただけである。だが下らない尾鰭がついてもおかしく思われないような雰囲気があることは間違いなかった。
「……でもそれではおもしろくないわ」
女官長の言葉に少し考え込んでいたミーティアが言葉を選びながら応えた。確かにエイトは、ミーティアから贈られたものならば何でも喜ぶのだが、実はその中で微妙な差異があることに気付いていた。あの庭が本当に嬉しかったミーティアとしては、一番喜んでいる顔が見たかったのである。
「本当に難しいわ。自分が貰って嬉しいものがエイトにとって嬉しい物だとは思えないもの。確かに服も必要だとは思うけれど、それは後々本当に必要になった時に誂えればいいだけだし」
公妃は楽しそうに「エイト」と言う、と女官長はこっそり思った。だから下々の者どものいうところの「ばかっぷる」と呼ばれてしまうのだろう。
「エイト様が持っていない物で手に入れることが難しい物はございませんか──あ」
「何か思いついたの?」
はっと目を見開いた女官長にミーティアは素早く反応した。
「──ございます。もっとも、手に入れるには困難が伴うかと」
「構わないわ。あなたの考えを聞かせて」
「かしこまりました。では」
女官長の言葉に真剣に聞き入っていたミーティアの顔がぱっと輝いた。
「かなり難しいことかとは……」
「いいえ、やってみる価値はあると思うわ。ありがとう、いいことを教えてくれて」
そう言うと茶に添えられていた小さなメレンゲ菓子をぱくっと一口で食べて立ち上がった。
「そうと決まれば仕事は片づけてしまわなければ。後、お父様にも話をしておかないと。これから忙しいわ」
楽しげに言いながら、ミーティアは新たな熱意で書類に目を通し始めた。
「微力ながらお手伝い申し上げますわ」
「ありがとう。仕事を増やすことになってしまうだろうけれど、よろしくお願いします」
目標ができて活き活きと仕事に打ち込みだした主の姿に、無理をさせてはならないと思いつつもできる限り力になろうと心に誓った女官長であった。


                                  (続)
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2014.5.16 初出 






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