春宵




それは、穏やかなある春の日のこと。
私は新たに呼ばれた、お年を召された先生の元、昼下がりの図書室で授業を受けていた。
図書室の外から、物音が微かに聞こえてくる。どこかでエイトが剣術の稽古を受けているのか、かん高い刃鳴りの音と共に喊声が聞こえた。
後で薬を持っていってあげよう。いつも打ち身や擦り傷をたくさん作って大変そうなんですもの。
でも絶対弱音を吐かないエイト。『あの教官オニだよ』とは言うけれど、辞めたいとは決して言わないエイト。
『お城の皆様のために役に立ちたいんだ』
あなたの気持ちを知っているから私は応援したい。そして少しでも力になってあげたい。私たち友達ですもの。
「うぉっほん」
大きな咳払いにはっとすると、老先生はじろりと私を一瞥した。
「只今は授業中でございますぞ。何事も集中してなさいますよう」
「はい。失礼いたしました。えっと、どこからでしょう」
と答えたその時、外から、
「うわっ!」
という叫び声が響いてきた。あの声は…
「エイト!」
私は思わず立ち上がったけれど、止められた。
「姫様、授業中でございます。お座りください」
「でも今の声はエイトだわ。何かあったのでは」
「姫様」
それでもエイトのところへ行こうとした私に、先生は厳しい調子で仰った。
「姫様が下々の者に目をかけ、親切になさることは大変喜ばしいことにございます。
ですが限度というものがございますぞ。エイトと申す者、唯の城の下働きで正規の兵士ですらありません。一国の姫君と軽々しく口をきける身分ではないことをお忘れなく」
「でもエイトはミーティアの」
「姫様、御自分のことは『わたくし』と仰いますよう」
先生の指摘に気勢をそがれつつも一生懸命冷静に反論しようとした。
「あのような声がしては私は心配です。大好きな人を気遣ってはいけませんの?」
何心なく言ったつもりだったのに、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「何たることか。ご夫君がおありも同然の姫様なのに城の下働きに恋されるとは」
「ちっ、違いますわ!」
言い訳しようとして裏返ってしまった声に戸惑った。
恋ってどういうこと?ただエイトが好きなだけなのに…私が、恋…?
「お兄様のように大切に思っていて、ずっと一緒にいたいと思っているだけです。それに夫ってどなたです?ミ…私はまだ結婚なんてしておりませんわ」
先生は大きくため息を吐くと「お座りください」と席を指差した。有無を言わせぬ様子に、外が心配だったけれど私は渋々席に着いた。
「かようなお気持ちを世間一般では恋と申すのでございます。姫様は御結婚なされているも同然の身。結婚している者が他の者を恋い慕うなどということは恥ずべきことでございます。
今後はこのようなことのないよう、エイトと二人きりで御会いしてはなりませんぞ」
「そんな」
「御存じなかったのでございますか?『許嫁者』とは結婚の約束を交わし合った方のこと。その御方こそサザンビークのチャゴス様でございます」
初めて知る事実に目を見張るばかりの私を後目に先生は続ける。
「私がここでこうして姫様にお教えいたすことはサザンビークの地誌と歴史でございます。嫁がれる国の事情を知ることは大切なことだと、忝なくもトロデ王様直々に御指名くださったのでございます。
姫様もどうか、王様の御期待に添える様授業に集中なさいませ」
「い…嫌…そんな…」
なんということを知ってしまったの。私『許嫁者』ってそんな意味だなんて知らなかった。ずいぶん前にトロデーン西教会で結婚式を挙げている人たちを見かけてからずっと、私もああいうドレスを着てエイトと結婚するの、って思っていたのに。
「今は授業を」
「嫌です、そんな…」
「姫様、どうかお静まりを」
「嫌なの、そんなの嫌」
「誰か、姫様が!」
もう何も聞きたくない。ただもう嫌々という言葉ばかりが口をついて出た。目の前の物全てが疎ましくて涙を零すばかりだった。


結局その後は授業にならなくて、私は部屋に戻された。
典医に気静めのハーブティーをたくさん飲まされ、ようやく解放されたのは午後も遅くだった。打ち身の薬を持って早くエイトの元へ行かなければ。
先程の物音が心配だったから…どこか怪我していないかしら?
そういえば許嫁者の意味を知った衝撃ですっかり忘れていたけれど、先生は私がエイトに会ってはならないと仰った?恋したりしないように。
違うもの、エイトはただ大切で大好きなんだもの、恋じゃないもの…
けれどもそうやって否定しようとすればする程自分の言う「好き」という気持ちがあやふやなことに気付いてしまう。
『世間一般では恋というもの』
そんなのではないの、ただ好きなの。
『そんなことは恥ずべきこと』
やましいことなんて何もしてない。ずっと一緒にいたいだけなの。それは、いけないこと?
湧き上がる先生の言葉を一生懸命否定しつつ、この時間ならいつもいる厨房へ行った。
「まあ姫様、お加減はもうよろしいのでございますか。先程泣いていらっしゃったので心配申し上げていたんですよ」
料理番のおばさんにそんなことを言われてしまい、私は先程のことがとても恥ずかしくなった。そういえば図書室から部屋までずっと泣いていたような気がする。今更ながらいくらなんでも子供っぽい行為だった。
「エイトなら水場ですよ。昼に剣の稽古で打ち身を作ってまだ痛むんだとか」
やっぱりそうだったんだわ。早く薬を持っていってあげないと。
私は急いで水場へ向かった。水場は城の外れにあって昼間は洗濯や水汲みの人たちで込み合っているけれど、この時間は誰もいなかった。
茜の空の下、泉の横にうずくまる人影が一つあった。あれはきっと…
でもエイト、と呼んで駆け寄ろうとしたのに、動けなかった。声すら出せなかった。
どうして動けないの?ただ薬を渡すだけなのに。
薬を握りしめ立ち尽くすばかりの私に、ふとエイトが振り返った。
稽古で痛めたのか左肩を押さえ、辛そうに顔を歪めていたけれどちょっと嬉しそうに、
「どうしたの?」
と話し掛けてくれた。でもどうして私の心臓はこんなに早く強く打っているの?
「エイト…昼間怪我したんじゃないかと思って。薬を持ってきたの」
「大丈夫だよ」
つい先程までと違ってぶっきらぼうにそう言うと、エイトは顔をまた顰めた。
「どこが大丈夫なの!痛そうにしているじゃない」
こんなところで意地を張らないで。そんな辛そうな顔は見たくないの。
私は薬を塗ってあげようと無理矢理エイトのチュニックを脱がそうとした。
「いいって、いいってば!」
「よくないわ!怪我なら治さないと」
力だけなら絶対エイトの方が強い。でも今はエイトは痛めた肩を庇っていて、しばらくもみ合ううちにチュニックの胸紐が解けて大きな青痣のできた左肩が露になった。
「こんなにひどいのにどうして…」
肩で息をしながら片膝をついているエイトに薬を塗ろうとして、はたと手が動かなくなった。以前のようにエイトの肩に触れられない…
しばらく見ないうちにエイトの肩はがっちりして、彫刻刀できりりと彫り出されたような鎖骨から繋がる胸元にうっすらつき始めた筋肉が、何だか私の知っているエイトではないような気がしたから…
「ごめんなさい…ただ無理してほしくなかっただけなの…」
肩から手を離し、漸くそれだけを言って薬を差し出した。
「うん…意地張ってごめん。薬、どうもありがとう」
エイトは薬を受け取ってくれたけれど、目を合わせてくれなかったのは気のせい?
「あの…エイト?」
気のせいじゃない、今も目を合わせてはくれない。
「本当にごめんなさい。嫌な思いをさせてしまって」
「いいよ」
エイトは手早く薬を塗り込むと襟を直し、立ち上がった。
「じゃ、これで。薬どうもありがとう」
そのまま立ち去ろうとしたので私は思わず叫んでしまった。
「行かないで!」
私に背を向けたままエイトは立ち止まった。
「どうして目を合わせてくれないの?お願い、ミーティアを見て」
エイトはのろのろと振り返り、顔を上げた。エイト見ていた私の視線とエイトの視線がぶつかった瞬間、何かが私の心に落ちた。
エイトが好き。今まで思っていた好きじゃないの。見つめるだけで身の震えるような、でも見つめずにはいられない、そんな気持ち。恋がどんな物なのか知らないけれど、もしかしてこんな気持ちなの?
「ごめんなさい、エイト。昼間からずっと心配していたの」
強くて身の内から揺さぶられるような想い。知られたくない、でも知ってほしい。
「ありがとう。…ごめん、心配かけて」
エイトの眼の中にいつもと違う、私の知らない表情が覘いていた。知らなくて不安なはずなのに、いつまでもこうして見つめていたい。エイトの手が私に向かって伸ばされ…
でも次の瞬間それは消え去った。
「御迷惑お掛けしたことをお詫び申し上げます、ミーティア…様」
初めて見る激しい表情がエイトの眼の中に閃いたけれど、それは覆い隠され、よそよそしい程の礼で私を置き去りにした。
私を「ミーティア様」と呼んだのは初めてのこと。あんなによそよそしくされたのも。
身分の隔たりってこういうことなの?友達──私にとっては好きな人──とお話したり一緒にいたりできないなんて。
ひどいわ、何も知らなかった昨日に戻りたい!
でももう戻れない。戻りたくない。もうエイトが好きって気付いてしまった。この想いを手放したくないの。
「エイト…」
名前を呼ぶ…だけでどうしてこんなに震えてしまうの。なのにどうして呼ばずにはいられないの?
明日からは私はエイトの姿を追わずにはいられないわ、きっと…


                                     (終)




2005.3.18 初出  2006.9.9 改定








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