Etude




トロデーン城の一室から美しいピアノの音が溢れる。
午後の一時をミーティアはピアノの練習に充てていた。幼い時からずっと弾き続けてきたピアノ、それと別れて見知らぬ国へ嫁ぐことにならなくてよかった、そして最も愛する人と結ばれることができて本当によかった、と心から思う。
幸せな気持ちが音にも表れるのか、自分でもいい音が出せているような気がする。部屋の中は美しい音に満たされ、ミーティアは音楽に包まれる幸せに浸っていた。
背後で静かに扉の開く音がした。絨毯を踏む静かな靴音はエイトのもの。ミーティアは手を止めて振り返ろうとした。
「いいよ、そのまま弾いていて。邪魔にならないように聞いているから」
優しいエイトの声が背後からした。
「ありがとう。しばらく弾いてなかったから練習したくって」
ミーティアはそう答え、再びピアノに向かう。最初はエイトに気を遣っていたが、演奏に没入するうちにその存在を忘れていく。
だから、その瞬間何が起こったのかとっさには分からなかった。いつの間にかミーティアのすぐ近くに寄っていたエイトが髪を一房掬い取り、そっと口づけを落としたのだった。
「やめないで…そのまま弾いていて…」
驚いて手を止めたミーティアの耳許でエイトが囁く。
「でも」
「お願い」
優しいけれど何か断固とした調子を感じて、仕方なく再びピアノを弾き始めた。しかしすぐ側に感じるエイトの気配と、先程のように突然何かされるのでは、という不安に音色も曇る。
エイトもそれに気が付いた。
「どうしたの?不安そうな音だね」
「そんなことないわ」
頭を振るミーティアの髪を梳き遣りながらエイトはさらに問う。
「もしかしてピアノを弾いている時って思っていることが音に出てしまうの?」
「ち、違うわっ…」
否定したけれど、頬は薄紅に染まる。その様子にエイトは「ふうん」と悪戯っぽく笑った。
「やっぱりそうなんだ。…僕が怖い?」
もう何を言っても墓穴を掘りそうで無言で頭を振る。ここは早く音楽の世界に入り込んでしまおうと急いで新たな曲を弾き始めた。なるべく感情の出ない、指のおさらいのような曲を。
「怖くない、よね?」
そう囁かれながら頬に口づけされ、ぴくりと反応した。その途端、つややかな音が飛び散る。
「ミーティア、かわいい。そのままずっと弾いていて」
エイトの声が耳許で囁き、指が髪を梳く。もう一度口づけされる。今度はこめかみに。頬よりもっと直接的な唇の感触がミーティアを混乱させ、テンポが乱れる。
「…びっくりした?じゃ、こっちは?」
エイトの唇が耳を啄む。時々「かわいい…」と囁きながら。その度に温かな息が耳に掛かり、ミーティアは思わずぎゅっと目を閉じた。
「緊張しないで。心のままに弾いて…」
こんな悪戯に付き合わないで立ち上がって部屋を出ていってしまおう、そう思っても裏腹に甘く切な気な音が部屋に響く。音が気持ちを表すのなら、こんな気持ちだなんて恥ずかしくて知られたくない。ただの練習のはずなのに。
ずっと耳を啄んでいた唇が離れ、空気の冷たさにひやりとした。漸く解放されてほっとしたはずなのに手は勝手に淋しそうな音を紡ぐ。
「淋しくさせちゃったかな、ごめんね」
背後から囁かれ、髪をかき寄せられたかと思ったら今度はうなじに口づけされた。唇が背骨の突起に沿って動き、ミーティアの輪郭を描き出す。
ミーティアは急にテンポの速い、元気な曲を弾き出した。せめてこの空気を払いたい、その一心からだったのだけれど。
「だめだよ、ミーティア。自分の心に素直になって。本当はそうじゃないんでしょう?」
見透かされてしまう。仕方なく再び元の曲を弾き出すミーティアの鎖骨をエイトの指がなぞる。繊細に動く手にうっとりするような感覚が呼び覚まされ、音も甘くつややかなものに変容した。
エイトの指は眉をなぞり、鼻を滑らせ、唇の形を描き出す。口づけを交わし合う時とはまた違った感触。でも不快を感じていない証拠に音は甘い。
ミーティアはとても不思議だった。自分がどう感じていたのか音によってはっきりと示されることに。結婚して数日、毎夜愛を交わす時も恥ずかしいという思いの方が強くて、本当は自分がどんな気持ちだったのか分からずにいたことが思い知らされる。
エイトの手が二の腕の内側に優しく触れる。透き通る白い腕にうっすらと透ける静脈に沿って指が滑らされ、その感覚の鋭さにピアノの音も戦く。
這い登ってきたエイトの手が止まり、腕が肩に廻された。そのまま優しく背後から抱き締められ、頬が寄せられる。頬と頬を寄せ合う感触が安らかな気持ちにさせた。先程まで甘美に激しく連なっていた音も柔らかく穏やかなものに変わる。
「ミーティア…」
エイトの右手が顎にかかり、顔を横向けられ優しく接吻される。最早ピアノを弾き続けることはできず、ミーティアも腕を廻して口づけを交わし合った。
「行こうか」
ようやく唇を離したエイトがにっこりする。
「どこへ?」
「奥へ」
予想外の言葉に返事もできずにいると気恥ずかしそうにエイトは続けた。
「いつも恥ずかしがってるでしょ。気持ちは分かるんだけど、どう思っているのか知りたかったんだ。本当は嫌がっていたらどうしようとか」
言葉もないままエイトの顔を見詰めているとエイトはさらに問う。
「嫌?」
淋しそうな目に首を横に振ることはためらわれる。でもここで頷いてしまったら…
「…い、嫌ではないわ…でも今は」
「よかった。じゃ、行こうか」
返事を最後まで言わせず、エイトは誘う。
「お願い、今は練習したいの」
そう言うとエイトは意地悪な顔をした。
「本当に練習したいの?本当は立てないだけなんじゃない?」
「違っ…」
ミーティアの抗議もものともせず、エイトはミーティアの身体に腕を廻し軽々と抱き上げた。
「エイト、降ろして」
「落ちちゃうよ。静かにしてて」
そう言いながらますます強く抱き締め、軽々と運ぶ。長い旅で鍛えられた身体は細くても鋼のよう、もがいたくらいでは腕は離れない。

           ※           ※           ※

エイトはミーティアを抱きかかえながら扉を開け、奥へ入っていった。開いた扉の向こうで寝台が軋む音がする。続くミーティアの抗議も何かに塞がれ、微かな衣擦れの音だけがした。
ややあってミーティアの抗議する声が聞こえる。でもその声は先程より弱く、頼り無い。
「確かめたいんだ、今すぐに。いいよね?」
「でも…」
抗議の声は弱々しい。
「いいよね」
返事は聞こえなかった。しばらくしてエイトの声が扉に近付く。
「一日中夜だったらいいのに…」
手が伸びてきて部屋の扉が静かに閉められ、鍵の音が響く。


こちらには静寂ばかりが残された。


                                             (終)




2005.3.14 初出 2007.2.26 改定









トップへ  目次へ