早春賦





ある午後のことだった。
外は麗らかに晴れ、暖かな春の日射しが降り注いでいたが、一歩屋内へ入るとひやりとした冷たい空気に驚かされる。それはトロデーン城、西の塔も例外ではない。その塔の階段をミーティア姫は一人、昇っていた。
本来王女であるミーティア姫が城内とは言え供の一人も連れず歩き回ることはない。侍女たちを従え、露払いの者が先触れをしながら物々しく移動するのだ。一人で移動することはむしろはしたない真似として慎むべきことなのである。
にも拘わらずその時姫がただ一人だったのは他でもない、彼女自身が強く望んだからだった。一人になりたい、一人にして欲しい、と。自分の行いが礼に外れていることは充分承知していた。でも何としても一人になりたかったのである。今、この時だけでも。
歩く姫の頭の中で昼食の席で父王が発した言葉が何度も繰り返されていた。
「そろそろサザンビークとの話を進めるつもりじゃ」
と。サザンビークとの話、それは姫自身の縁談に他ならない。姫がこの世に生を受ける以前から定められていた縁組、国と国との約束である。それは両国国民にとって喜ばしいことだろう。婚姻という最も強い絆によって両国が結びつくのだから。だがそれはミーティア姫にとっては呪わしい軛も同然だった。心に誰も棲まわせていなければ国家の要請に応えることも容易かったかもしれない。王族の結婚など、所詮は政略である。正嫡さえ得られれば、王族の務めさえ果たせば、極端な話、後は何をしても自由なのだから。
だが、そんなことは思いもよらぬ姫にとって、心に抱く俤を捨て去ることは身を裂かれるような苦痛を伴うものだった。
(知られてしまう、あの人に…)
ミーティア姫には許嫁者がいる、という事実は城の皆が知っている。だがそれは仮のもの、いつ覆るか分からない。両国間の情勢が変わって破談になることも多い。だが正式に婚約が整えばそれはもう動かし難い事実となる。だからこそそれを進めようという父王の言葉は落雷にも似た衝撃だった。
その後、どうやって会話して食事を終えたのか覚えがない。ただ一つ心にあったのは、
(エイトに知られてしまう)
という一点のみだった。食事は王と二人きり、けれども必ず給仕が従っている。この話が出たことはその者からあっという間に使用人の間に広まる筈だ。勿論、エイトにも。
(知られたくない、知りたくない!そんな日が来ることなんて。ただ二人、時の外で子供のまま仲良しでいたかったのに)
激しい感情に揺さぶられながらもミーティア姫の足取りは変わらなかった。決して表に出してはならない想いであるが故に、最後まで隠し通すとひっそり決めていたのだから。
だが、塔内を昇り切った途端、姫の足取りは急に乱れた。見張りの兵の詰所であるそこに、他ならぬエイトがこちらを向いて座っていたのである。
はっと後退って階段から落ちそうになるが、何とか堪えた。恐る恐る彼を見遣ったが、微動だにしない。それもその筈、エイトは壁にもたれ掛かり剣を支えにして眠っていたのである。
「エイト?」
その囁きにも全く反応しない。そう言えば昨夜は夜番だった、と姫は思い出した。窓越しにエイトの使う槍の穂先が鈍く光っていた、と。
近衛兵であっても不寝番はある。余程疲れているのだろう、とそっと近寄って眠るエイトの顔を見ながらミーティア姫は思った。
(徹夜なんかしたら、誰だってきっと眠くて眠くて仕方ないわ)
一度、とても面白い本を手に入れた時に夜通し読んでしまい、次の日ずっと眠気と戦わなければならなかったことがあった、と思い出して姫の唇から笑みが零れた。そしてエイトが眠っていることをいいことにじっくり彼の顔を眺めた。
(また背が伸びたのかしら)
ひょろりと伸びた手足を持て余し気味にしている。急に伸びたせいなのか上手く扱えていないように見えた。今はきっと、ミーティア姫と同じくらいかもしれない。
姫の身長は十一、十二の頃から伸び始め、一時はエイトよりも高くなってしまった。このままでは大女になってしまうのではないかと周囲は心配したが、どうやらここ一、二年で頭打ちになったようである。
姫もまた、それに安堵していた。何となく、エイトより背が高くなってしまったことに後ろめたさを感じていたからである。
「ふーっ」
急にエイトが深い寝息を立てた。はっと身を退ける。が、再び眠りに落ちたことを確認するとまたしげしげとエイトに見入った。
凛とした眉の辺り、清々しささえ感じさせる生え際、少し伸びた髪が作る翳り、その全てが何物にも替え難く貴重なもののように思われる。使用人としてこの城で働いてきたのに、時折訪ねて来る貴族の子弟たちにもひけを取らないどこか気品のある顔立ちと物腰。
(お願い、目を覚まさないで…)
息を潜め、ミーティア姫はエイトの顔をつぶさに観察する。すっきりした鼻梁や、きりりと引き締まった顎の線を見た後、ふっと口許に眼を遣った時そこから視線を外せなくなってしまった。
普段、庭の散歩に従うエイトの唇はしっかりと引き結ばれ、話し掛けてもせいぜい「はい」とか「恐れながら…」ぐらいしか言ってくれない。何とかして眉間の間に寄る寂しく、厳めしいものを和らげようとしても、礼儀正しく控えているばかり。それが今、唇は無防備に緩んで微かな寝息が洩れていた。
エイトの寝顔を微笑を湛えて見ていたミーティア姫だったが、ふとある考えが浮かんだ。その考えはひどく魅力的なものだったが、同時にそれはしてはならないことでもあった。慌てて打ち消そうとしたが、一度思い付いてしまうともう二度と脳裏から離れてはくれない。一、二歩退き、頚を振ってみたものの、何の効果ももたらさなかった。
(でも、もし誰も気付かなければ)
そう、エイトにすら。自分一人の心の中に収めておきさえすれば何の問題も起こらない、筈。
そう思った姫はまたそっとエイトの傍に寄った。いつの間にか握り締めていた右手を壁に当てがい、身をかがめ、一瞬躊躇った後そっと唇を──
(私の心はエイト、あなたのもの…)
が、その途端エイトの眼がぱっと開いたのである。エイトの唇に触れんばかりだったミーティア姫はそのまま動けなくなってしまった。
「あ、あの…」
何とか言い訳を、と思うものの、頭の中は空回りするばかりで何も出てこない。あまつさえエイトは真直ぐミーティア姫の眼を見詰めている。その眼からは何の感情も窺えない。
「ご、ごめんなさい!」
きっと怒っている。そう直感的に思った姫は叫ばんばかりに囁くと、ぱっと身を翻して扉を開け、塔の外へ逃げ出した。
(何をしようとしていたの、馬鹿な私!エイトが嫌がるかもしれない、ってどうして思い付かなかったの?ああ、もう嫌!この先どうやってエイトと顔を合わせればいいの?)
扉を開けると冷たい春の風が肌を刺す。その冷ややかさにこれまでの想いは醒めた。
(しなければよかった!あんなこと!)
日射しは春のものであっても、外の景色はまだ冬枯れていた。この温かさに惑わされ、いつの間にか浮かれていた自分の心が恥ずかしかった。
裾が乱れることも気に留めず、ミーティア姫は自室の方へ走り去って行ったのだった。

           ※          ※          ※

一方その頃、一人取り残されたエイトはまた眼を瞑っていた。今し方起こったことを覚えている気配は全く無い。
(誰か来たのかな…起きなければ…でも眠い…何だかいい匂いがする…)
彼の頭の中はそればかりしかなかったのだった。


                                    (終)




2006.3.8 初出









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