海の青 空の青




目の前に海が広がっている。
これ程澄んだ海の青を、私は知らない。真っ白な砂浜に、青い海。波打ち際は淡い青で、沖の方は深い青。どこまでも澄んで、翳りがない。そんな光景は、画家たちの描く絵の中だけにあるものだと思っていた。
海を眺めつつとりとめもなくそんなことを思っていた時、ふと、心が痛んだ。
トロデーンの海はもっと、灰色がかっていた。どんなに晴れた夏の日でも、決して澄み渡ることはない、北の海。どこか翳りを含んで、一度嵐が来れば鈍色となり白波が牙を剥く。
きっと誰もがこの目の前に広がる南の青く穏やかな海を好ましいと思うだろう。けれども、私はトロデーンの城壁から眺める北の荒れた海の方が好きだった。
いいえ、それは正しくない。今、このサザンビークの海辺に立って初めてそれに気がついた。トロデーンの海も、空も、森も、草原も、そして住んでいる人々も大好きだった。ただ好きなだけではない。私の全てはトロデーンによって形作られている。トロデーンの景色に囲まれ、トロデーンの水を飲み、トロデーンの空気を吸ってきた私。こうして旅の空にあってやっと、それを知った。自分がいかに強くトロデーンと結びついているかということを。
「…」
今、馬の姿でよかった。人の姿だったならきっと、泣いてしまっただろう。こんなにも大切なトロデーンを失って、さらにその先も失ってしまうことが分かっていたから。
「姫様」
背後で静かに砂を踏む音がして、控えめに呼びかけられた。
「よろしければお戻りくださいますよう。そろそろ昼ですので…」
エイトだった。
「…」
戻りたくなかった。こんな心を抱いたままでどうして皆のところへ戻れるだろう。でも、戻らなければ皆に迷惑がかかる、と思い直してエイトの言葉に従って踵を返そうとした。
「海を見ていらっしゃったのですか」
と、ついとエイトが進み出て私の隣に並んで海の方へ眼を遣った。
「きれいですね…海って、こんな色をしていたんですね」
独り言のように呟く。私はそれをただ黙って聴いていた。
「トロデーンの海と繋がっている筈なのに、どうしてこんなにも違うのでしょう」
そう、あまりにも違う。どんなに美しくとも、その景色は私に属するものではない。私は、トロデーンに…
「お帰りになりたいですか、トロデーンに」
ひっそりと問いかけられる。ああ、そんなことを聞いては駄目。本当は帰りたいわ、今すぐに。でも一生懸命戦っているのに私だけそんなわがままは言えない。お願い、エイト、どうか…
「僕も帰りたいです」
きっぱりとした口調にはっと眼を遣ると、一見普段とは変わらないエイトの姿があった。
「帰りたいです、トロデーンに。世界中旅して分かったんです。僕の故郷はトロデーンだって」
その眼には紛れもなく望郷の想いが溢れていた。私と同じように。
「早く帰りたいです。僕の故郷に。トロデーンに…」
懐かしさの滲む声でエイトは言った。その後、付け足された聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声を私の耳は拾った。
「あなた様のいらっしゃる…」
私も、帰りたい。あなたがいてくれる、トロデーンに。懐かしくて胸の奥が痛くなる。でもそんなことは言えない。
「どうか、仰ってください。『トロデーンに帰りたい』と。わがままでも何でもないと思います。その言葉一つで…僕はまた戦っていけるのですから」
いつの間にかうな垂れていた私は、その言葉にはっと顔を上げた。
「どうか…」
「…」
この馬の身では何も言えない。私はただ、エイトを見詰めるだけしかできなかった。
(帰りたい、あなたと一緒に!)
人の姿だったなら、間違いなく叫んでいただろう。故郷への想い、エイトへの想い、この海と空と、私たち二人しかない遠い異郷の地であるのならば他の誰にも知られないだろうから。
「ええ。帰りましょう」
私の声なき声が伝わったのか、私の眼を見詰めたままエイトが力強く頷く。
「必ず、帰りましょう。僕はどこまでもお供いたします」
許されることならばいつまでも見詰め合っていたかった。
「…参りましょうか」
でも、そんなことはできましない。きっと、気付かれてしまう、お父様に。それに食事の時間を遅らせては申し訳ないから。


二人並んで砂山を降りながら、ふと思った。いつか、この場所に立つ時に思い出すのだろうか。二人並んで海を見たことを。その時、耐えられるだろうか。トロデーンを、エイトを懐かしく、慕わしく思う想いに。
隣にある、赤いバンダナから覗く茶色がかった髪が潮風に揺れている。その光景を忘れまいと、心に焼き付けるのだった。


                                    (終)




2007.11.9 初出









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