青く美しき(後編)




大体、ミーティアの部屋の中でミーティアと抱き合っていたからって何の問題もないんじゃないだろうか。別に人前に出られない格好になっていた訳じゃないんだし。僕にだってそれくらいの判断は付く。
理不尽だと心の中で思いながらもここは素直に謝っておこうとおとなしく説教を受けて、長い一日は終わった。


それから来る日も来る日もワルツの特訓だった。
とりあえず何がまずかったのか分かったことで当面の目標ができてがむしゃらにやらなくてもよくなったことだけはありがたかった。そうでなかったらもっと消耗していたに違いない。
夜寝る前になると、延々とミーティアの弾くピアノの音が耳に響くのはきつかった。確かにミーティアの音はすごく好きだ。でもそれがのべつしまなく鳴り響くとなると話は別だ。普通に廊下を歩いている時もそれは聞こえていて、無視して歩くこともできない。つい合わせて歩いてしまい(無視して歩こうとしたけど、歩き難くて駄目だった)、自分で気付いて一人苦笑を漏らしたりしていた。
それでも文句を言おうとは思わなかった。肩から腕まで凝らせて指先が赤くなるまでピアノを弾いて、ミーティアは僕の練習に付き合ってくれている。それを思えば大したことじゃない。ただもう早く上達したい、とばかり思っていた。


何が悪いのか分かったものの、そういったリズム感のようなものって身体に叩き込まれるまで結構時間がかかるものだ。
「今日から二人で練習よ」
と漸くお許しが出たのは例の舞踏会まで後一週間、という時だった。もう間に合わないんじゃないか、と思っていたんだけど何とかなってよかったよ。そうでなかったら本当に不思議な踊りを披露するところだったし。早速ミーティアの音楽の先生を呼んでピアノを弾いてもらい、それに合わせて二人で練習することになった。
だけどそれはそれでまた大変だった。優雅そうに見えるけど、踊りってものすごく消耗する。兵士の訓練の中でも、トロデーンの城門までの駆け上がり百本に打ち込み千本の特別コース並みだ。いくら鍛えても見た目にあまり筋肉の付かなかったものだから、よくやらされたっけ。まあそれは僕の体質─竜神族の性質によるものだった、って後から分かって納得したんだけど。
それにしてもミーティアはどうしてこう、軽やかに踊ることができるんだろう。同じ時間踊っている筈なのに全然辛そうじゃない。
「ミーティアはすごいなあ」
休憩時間に、僕は改めて感嘆の目でミーティアを見た。
「よくこんなに長く踊ってられるよね」
「ずっと昔からお稽古してますもの」
なんて澄まし顔で答えたけど、そんな問題じゃないと思う。正しい姿勢というものも兵士の訓練の中で叩き込まれた筈なのに、背中はがちがちだ。腕はずっと上げっぱなしだし、だんだん顔が引き攣ってくると、
「そんな怖い顔しないで」
とやんわり言われちゃうし。
そんなことを思い返しながら、
「はあ」
と図らずも溜息を吐くと、
「でも随分よくなったと思うわ。足がリズムを覚えたのね」
と嬉しくなるようなことを言ってくれた。
「そう?自分ではよく分からないんだ。ありがとう」
「もう少しだと思うの。まだ何だか動きが硬いみたいだけれど、それだけよ」
動きが硬い、と言われてちょっと苦笑いしてしまった。練習中にふと、
「寄らば引け、引かば押せ」
という格闘の格言みたいなことを思い出してそんな感じで踊ってたんだよね。そりゃ硬いよな。
「足が覚えているのですもの、もう音に合わせて楽しく踊りましょ」
ミーティアが立ち上がって、練習が再開された。

            ※           ※           ※

ついに舞踏会の日がやって来てしまった。
緊張していたせいか前の晩よく眠れなくてミーティアに心配されちゃったりしたけど、ここまで来るともう居直りに近い気持ちになってくる。
「大丈夫よ、エイト。そんなに緊張しなくても」
入場を待つ控えの間で、ミーティアは僕の手にそっと手を重ねて言ってくれた。
「そっ、そうだすね」
「もう、エイトったら!」
あれ、今何か変なこと言ったかな。目の前でミーティアがなぜか笑いを堪えている。
「『そうだすね』だなんて…うふふ、おかしいわ」
「えっ、今そんなこと言った?」
「言ったわ。うふふふふふふ」
最早堪えることも難しくなったらしい。ミーティアが笑い転げている。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないか」
と言ったものの、僕も何だかおかしくなって一緒に笑ってしまった。
「もう大丈夫」
ひとしきり笑いあった後、笑いを収めてミーティアが言った。
「楽しみましょ。だってそのための舞踏会なのですもの」
「…うん」
すとん、とミーティアの言葉が心に落ちた。
「そうだね」
そうだった。この会は楽しむためのもの。一年を無事に過ごし、来るべき年を迎えるための会。僕は深く頷いた。
「怒涛のような一年だったけど、今はもう、終わるんだね。
…楽しもう」

            ※           ※           ※

先触れの声の後に入場すると、それまで賑やかだった謁見の間はさっと静まり返った。広間を埋め尽くす人々の眼が僕たちに向けられる。その中を真ん中まで進み出て構えを取ると、ミーティアが手をかけ身体を沿わせた。その途端鳴り渡る楽の音。一瞬どうしよう、と思ったのもつかの間、自分の身体に染み込んだワルツのリズムが勝手に足を踏み出させる。
(そうか)
あの長い特訓の意味が漸く腑に落ちた。ミーティアの顔に視線を遣ると、そうよ、とばかりに微笑が帰ってくる。
何も考えなくても勝手に足が出るというこの状態はとても気持ちよかった。ただ音を聴いて、それに合わせているだけでいい、そしてちゃんと音に合っているって何て気持ちよく、楽しいんだろう。腕の中のミーティアもまた、そう感じているに違いなかった。儀礼的な微笑ではなく、本当に心から楽しいと思っている時にだけ見せる輝くような微笑みを浮かべて僕に合わせている。
そんなことを考えていたら最初の曲はあっという間に終わってしまった。物足りない気持ちになりながらも─そう思える自分が不思議だった─周囲の人々に向かって会釈する。
「楽しかった」
予想外のことに小さく呟くと、ミーティアも頷いた。
「ええ、ミーティアもよ」
そっと微笑みを交し合っていると、不意に肩を叩かれた。
「よう、お二人さん」
振り返るとヤンガスにゼシカ、ククールがにやにやしながら立っていた。
「上達したわね、エイト。随分練習したんじゃない?」
「兄貴、さすがだったでがす」
「ちょっと見直したぜ」
「ちょっとかよ」
ククールの言葉に苦笑いしたけど、三人の言葉が素直に嬉しかった。
「ありがとう、そう言ってくれて。随分練習したんだ。ね、ミーティア」
「ええ。エイトはとっても頑張ったのよ」
僕の言葉を受けてミーティアがそう言ったんだけど、急にククールが顔を顰めて、
「へいへいごちそうさま」
とか呟いたのはどうしてなんだろう。別に惚気た訳じゃないのに。
「そう言えば、ゲルダさんも来てるのよ」
「ゼシカの姉ちゃん!それは言わねえ約束だろ!」
慌てたようにヤンガスが言ってその場を離れようとしたけど、ゼシカががっちり襟首を捕まえて離さない。
「そうなんだ。ヤンガスが連れてきたの?」
「まあ、お会いしたいわ。今、どちらに?」
僕たちに問われ、ヤンガスは、
「いや、その…」
ともごもごもと口篭った。
「ヤンガスが連れてきたんだろ、呼んでこいよ」
「へえ、そうなんだ」
「違うでがす!その、招待状が届いた時丁度ゲルダの奴が来て、『連れていけ』ってその…ついでで、その…」
「ふーん」
ククールにあれこればらされ、ヤンガスはむきになって何かを否定しようとしてまたもごもごと口篭る。
「何やってるんだい」
急に声が掛かってヤンガスが飛び上がった。忍び足で近付いたのか、いつの間にやらゲルダさんが側に立っている。
「ついでって何さ、ついでって。アンタが是非、って言うから来たんだろ」
「いやだからそれは言葉のアヤで…」
掴みかからんばかりの勢いでゲルダさんがヤンガスに食ってかかる。その胸元にはあの「ビーナスの涙」が艶やかに輝いていた。
「…ったく、こっちは痴話喧嘩かよ」
ぼそりとククールは呟いて、
「こいつらちょっと放っといて、少し踊ろうぜ」


踊ったり、仲間たちと話したり、笑ったり、なんて楽しい時間を過ごしたことだろう。
特にトロデ義父上様がミーティアを相手にワルツを踊られたのを随分久々に見たような気がする。かなりの踊り手でいらっしゃるんだけど、今はもうほとんど踊りなさらない。余程楽しい気分だったんだろうな。
「皆様、今年最後の曲でございます!どうか大切な方のお手をお取りくださいませ!」
楽団の指揮者がそう叫んで踊りの輪への参加を促している。
「もう終わりだなんて」
残念そうにミーティアが呟いた。
「うん。そうだね」
僕も全く同じ気持ちだった。
「また来年もあるって分かってるけど、やっぱり寂しいな」
「ええ。そうね」
前に進み出てふと辺りを見渡すと、あちらの方でヤンガスとゲルダさんが踊ろうとしている。
「…頑張れよ」
こっそり呟くと、ミーティアが怪訝そうな顔をした。
「ううん、何でもない。独り言」
「そう?」
不思議そうに首を傾げたけど、ミーティアもまた僕の背後に視線を遣って唇をほころばせた。
「どうしたの?」
「うふふ、何でもないの。ほら、曲が始まるわ」
ミーティアの言葉通り、追求する間もなくすぐに曲が始まった。
色んな曲が演奏されるけど、最後の曲はいつも決まっている。僕にも聞き馴染みのある曲だ。青く美しい川の流れを音で描写したものだ、とかつて聞いたことがある。
「どうしてこの曲が最後なんだろ」
緊張はいつの間にか解け、身体を自由に音に合わせながらふと呟いた。
「それに川って青くもなければ美しくもないのに」
「そうね。確かに」
僕と音に身体を委ねながらミーティアが答えた。
「でも心の眼を開いて見さえすれば、青く美しく見えるものなのですって」
「そんなものなのかな」
「エイトもきっとそう見えると思うわ」
「そうかなあ」
疑わしげな僕に、ミーティアはくすりと笑いを漏らしただけだった。
「だけど本当に楽しかった。もう終わってしまうのが残念だよ」
本当に曲が終わるのがもったいなかった。こんなに楽しかったのに。だけど何事にも終わりがやってくる。
音が終わると同時に新年の鐘が鳴り響いた。人々はしんとしてそれを聞く。鐘が鳴り止むと同時に新年を祝う言葉が広間中に広がった。
「新年おめでとう!」
「今年もまた、いい年でありますよう!」
「また来年、無事にここでお会いしましょう!」
挨拶を交わし合った後、無礼講の宴会になだれ込もうとしている人々に捕まらないよう、僕たちはそっと拝謁の間を出たのだった。
            ※           ※           ※
楽しい気分のまま部屋へ向かう廊下を辿っている。
「今までで一番楽しかったわ」
「うん。不思議な踊りを披露せずに済んだしね」
ミーティアを無事に部屋に送り届けるという名目の元、僕たちは二人だけで歩いていた。
いつもと変わりのない廊下だったけど、なぜかいつもよりあちこちにある灯りはパチパチと楽しげな音を立てて燃えているように聞こえるし、廊下の絨毯の色は鮮やかに見える。
どうしてなんだろう、と心の中で首を傾げた時、さっきのミーティアの言葉が甦った。
(「心の眼を開いて見さえすれば、青く美しく見えるものなのですって」)
ああ、そうか。もしかしたらそんなものなのかもしれない。心の持ちようでどのようにも世界は変わる。現に今、いつもの廊下が違ってみえる。それはただ単に楽しい気持ちだからなのかもしれないけど。でも、そんなものなのかも。
心の眼を開いて見れば川も青く美しい。生きている喜びが何もかもを輝かせる。
「…本当だね」
周りに誰もいないのをいいことに先を行くミーティアを背後から抱きしめると、甘い髪の匂いが鼻腔に広がる。
「何もかも、輝いて見えるよ」
「ええ、そうよ。何もかも、輝いているわ。いつまでも、永遠に輝くのよ」
僕たちの鼓動が重なったような気がした。そのまま頬を寄せ、唇を重ね合う。
「今年も、よろしく」
腕の中、ミーティアがくすりと笑った。
「いつまでも、よろしく」
「そうだったね」
二人で声を合わせて笑う。世界はこんなにも楽しく、美しいものなんだ。これを知るためにあの旅があったんだ。
ミーティアの顔を見る。手を繋ぐと、心得たかのようにミーティアがドレスの裾を持ち上げる。頷き合うと、僕たち二人は手に手を取って部屋まで駆けたのだった。



                                            (終)


2008.1.26 初出  






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