青く美しき(前編)




「特訓しなければね」
とあまり似合わない厳しい顔をしてミーティアが言った。
「特訓…」
その口調と、これから行われるに違いない苦手なワルツの練習にちょっと怯んだ僕に向かって、ミーティアが重々しく頷いてみせる。
「そうよ、特訓」
そんな可愛らしい顔で特訓、と言われてもぴんとこない。特訓っていったらそれは訓練場での朝から夜までぶっ通し稽古だとか野外での実地訓練とかみたいなのしか思いつかない。
「だけど特訓って言ってもどこで練習するの?」
僕の頭の中ではミーティアが城の訓練場に立って、
「そこ!さぼるなしっかりやれ!」
と僕に稽古をつけてくれた連隊長よろしく剣を振り回している情景が浮かんできて困ってしまう。それはないだろう、と思っても乏しい想像力ではそんな程度のものしか思い浮かばない。
「ええと…この部屋でしましょう。ピアノもあるし」
この部屋で?いや、よく考えたら剣を振り回すことはないんだからここでいいのか。だけど何をするんだろう。
「じゃあ着替えてくるね」
「大丈夫よ、そのままで。じゃ、始めましょう」

            ※           ※           ※

ミーティアと結婚してからというもの、格段に覚えなければならないことが増えた。王族としての仕事に近衛隊長としての仕事(これは自分から続けさせてもらっている)、さらには礼儀作法の特訓までと幅広い。
この礼儀作法というものが曲者で、何だかとても理不尽な行動を要求されることが多くて困る。まあでもミーティアもそれをしているんだと思えばまだ我慢できるんだけど、社交界の作法が難関だった。
全く知らない人と如才なく会話する術とか立ち居振る舞いとかは役に立ったと思う。かなり色んな場面で助けられた。だけど一番の問題は舞踏会だった。
当たり前だけど、舞踏会なら踊らなければならない。そりゃ僕だって踊ったことぐらいはある。近くの村の祭りに兵士仲間と行ってそこで少し踊ったし。だけどここで要求されているのとは全く別のもの。全く以って初心者も同然の僕だったけど、それでも何とか覚えたんだ。ミーティアに恥かかせたくなかったし。だけど一つだけ、ワルツだけがどうしようもないまま今日に至っている。足の運び方とか細かいところは何とかなったんだ。なのにどうにもノリが悪くて、怪しげなへっぴり腰になってしまうんだよね。
何かの時なんて余りにも僕の足取りが怪しかったのか、見かねたミーティアがそっとリード側に回ったんだよね。進行方向に逆向きに進みながら、
「これって逆じゃない?」
とそれとなく抗議したんだけど、
「そうね。でも踊りができる側がリードに回った方がいいのよ」
とやんわり言われてしまった。いや、確かにそうではあるんだけど。でも、その状況に気付いたククールににやにやされてしまって、僕は深く落ち込んだ。まあ、後で手が滑ったふりしてギガデインしてやったけどね。
そんなこともあって、ワルツは練習しつつもなるべく公式の場で踊ることは避けてたんだ。だけどその作戦も今回はどうやら使えなさそうだった。
トロデーンでは一年の終わりから新年にかけて大舞踏会が催される。僕も警備に就いたことがあるから知っているんだけど、それは盛大なものだ。夕方、日が落ちる頃に始まって、新年を告げる鐘と共にお開きになる。随分長い会の様に思えるけど、途中途中で余興もあるし、色んな種類の踊りがある。もちろん疲れれば隅の方で何かつまんでもいいし、こっそり席を外すことだって可能だ。でも最後の一つは、主催の一人ということになっている僕には無理だけど。
で、その舞踏会は色んな踊りがあるにも関わらず、ワルツに始まってワルツに終わるのが恒例だった。それも今回は僕とミーティアが中央で踊ることになっている。
「国の内外に広く知らしめるよい機会じゃ。しっかり励めよ」
とまでトロデ義父上に言われてしまったし。それって要するに「ワシに恥かかせるでないぞ」ってことだよな。うう、ますます何とかしなきゃならないよ。このままじゃ不思議な踊りをお披露目することになっちゃうよ。これは何としても頑張らないと。

            ※           ※           ※

ということで、ミーティアの調整によってあれよあれよと言う間に僕は日課のほとんどをワルツの特訓に充てることとなった。それでも、たかがワルツだし、と思っていたことは否めない。それにミーティアがいてくれる、とちょっと嬉しかったし。だけどその考えは大甘だったことをすぐに思い知らされることとなった。
「じゃあエイト、ミーティアの弾くピアノに合わせて部屋を歩いてね」
「へっ?」
例のごとくミーティアと踊るのかと密かに心躍らせていた僕に、ミーティアは思いがけない言葉をきびきびと掛けてきた。
「えっ、あの、ただ歩くだけ?」
「そうよ。でもちゃんとピアノの音に合わせるのよ」
特訓なのに歩くだけでいいんだろうか。
「ああ、うん。じゃ、やってみるよ」
釈然としないながらも頷くと、ミーティアはなぜか労わるような笑みを残してピアノに手を掛けた。
「ではいくわね。一、二、三」
ミーティアは淡々とワルツの拍子を刻み始めた。よし、こんなの楽勝!と歩き出したの筈だったのだが、早速躓いてしまった。
「あれ?」
「大丈夫よ。そのまま続けて」
立ち止まろうとしたけど、優しくもきっぱり言われて再び歩き出そうとした。そうだ、ただの三拍子だ。落ち着いてやれば大丈夫、と心に言い聞かせる。でも歩き出すとすぐにずれてしまい、慌てて立て直そうとすると変な足つきになってしまう。
「よく音を聞いて、歩くの」
指示をしつつも、ミーティアの指は全く澱みがない。
「う、うん」
もうそう答えるのが精一杯だ。これはかなりきつい。ただ音に合わせて歩くだけでいいのに、なぜかずれる。その原因が分からない。
「少し休みましょう」
無限のように思えた練習の後、漸くミーティアがそう言ってくれた。
「…ふう」
無意識のうちに溜息が漏れる。気付いたらびっしょりと汗をかいていた。手の甲で汗を拭っていると、
「今のうちにしっかり休んでおいてね」
ミーティアが自分のハンカチを差し出してきた。
「あ、いいよ。大丈夫だよ。すごく汗かいちゃったし、それ汚れちゃうよ」
と言ったものの、結局受け取ってしまった。
ミーティアのハンカチはとてもいい匂いがする。控えめにつけている香水の香りと、ミーティア自身の肌の匂いが入り混じって胸の奥が締め上げられるような気がした。額を拭うふりしてその芳しい香りを一杯に吸い込むと何だかまた頑張れるような気がしてきた。
「…始めましょうか」
その言葉ににっこりと微笑を返して僕はまたピアノの音に神経を向けて歩き始めた。

            ※           ※           ※

結局その日はピアノの音に合わせて歩くだけで終わってしまった。だけどただそれだけのことだったのにもうへとへとだ。気疲れに近いかもしれない。
「ねえミーティア」
歩きながら僕はあることに気がついていた。
「このリズムって、ちゃんと三拍子なの?少しずれてない?」
そうだ。歩いていて何となく分かってきたんだけど、ミーティアの刻んでいる音は均等に三つ打ってない。
「気がついたのね」
ミーティアはとても嬉しそうに微笑んだ。
「ワルツのリズムってちょっと違うのよ。最初の一歩は大きく踏み出して、後の二歩は添える程度でいいの」
「やっぱりそうなんだ」
ミーティアの言葉に僕は納得した。道理で歩き難い訳だ。ずっと均等に踏み出していたんだから。
「…あっ、それじゃ今までやってきた練習ってもしかして」
「そうよ。リズムを身体で覚えてもらうための練習なのよ。ステップとかその他の部分はできているのに、リズムに合ってなかったら今まで上手くいかなかったの」
「そうだったんだ…」
上手くいかなかった理由がはっきりして、すごくすっきりした気がした。何しろ無我夢中で足掻いてもどんどん深みに嵌るような感じだったのが、何がいけなかったのか分かったのだから。
「気付いてくれて嬉しいわ。こういうのって自分で気付かないと難しいのですもの」
ああ、頑張った甲斐があったかも。目の前のミーティアの嬉しそうな顔を見るだけで疲れなんかどこかへ吹っ飛んでしまいそうだ。
でも、思わず頬を緩ませながらミーティアにふと眼を遣った時、彼女がほんの少しだけど眉を顰めていることに気付いた。
「ミーティア」
まだ何かやらかしているんじゃないのか、と心配になって問いかけるとミーティアはさっと手を後ろに隠した。
「な、何でもないわ」
「何でもなくないよ。手をどうしたの」
その手を取って見ると、指先が赤くなっている。触れると熱を持っていた。
「ミーティア…どうしてこんなになるまで」
触れると、腕も肩もすっかり凝っている。
「だって…だって、エイトと踊りたかったのですもの」
恥ずかしそうに顔を背けながらミーティアは答えた。
「だって、いつも楽しくなさそうにしているでしょう。だから、せめて一緒に踊れたらいいのに、って思って」
意表を突かれ、僕はただ黙ってミーティアを抱き寄せることしかできなかった。
「…ごめんね。ありがとう」
お礼の替わりに凝り固まった肩や背中を揉み解す。と、ミーティアは気持ちよさげに目を閉じた。
「頑張るよ。僕も一緒に踊りたいから」
「…ええ」
そのままずっと抱き合っていたかったけど、そこへトロデ義父上がやって来て、
「こりゃ!おぬしら何やっておる!」
と延々説教されたのはまた別の話だ。


                                            (続く)


2008.1.17 初出  






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