二人の世界



先触れもなしで行ったことが悪かったのかも知れない。扉を叩いて返事もよく聞かずに入ったことも。だからエイトには何の悪いこともなかったのに。
「わっ!」
「きゃっ!…ご、ごめんなさい!」
慌てて扉を閉めたけれど、ほんの一瞬だったのに見えてしまった。上半身の服を脱いで稽古で流した汗を拭っているところを。
どうということはない、と心を落ち着かせるべく言い聞かせる。ほっ、ほら、庭の噴水の掃除の時とか、水場の掃除の時とか男の方たちが双肌脱ぎで作業している姿を見たことがあるもの。それに、前にエイトと一緒に海へ行ったこともあったのですもの。あの時は水着で、さっきよりもっと身体は覆われていなくて…
そこまで考えて、これ以上考えては事態を悪くするだけだと気が付いた。だってほら、有り得ない程心臓がどきどきしているのですもの。もう何も考えない方がいいに違いないわ。
努めて先程の映像を心から追い払おうと一人苦闘していると、後ろの扉が静かに開いた。
「ごめんね、びっくりさせて」
とても手早いのか、それとも私が随分長く思いに耽っていたのか、稽古の汗や埃をきれいに拭い去り、着替えを済ませたエイトが立っている。
「あっ、あの、ごめんなさい。よく確かめもしないで部屋に入ったりして」
動揺していることを知られまいと、慌てて急な訪問についての謝罪のことを口にする。
「ううん、いいんだ。いいんだけど…」
気にしてないよ、と言うようにエイトは手をひらひらさせた後、口篭った。
「けど?」
その口調に何か引っかかるものを感じて首を傾げて見遣ると、エイトは眼を逸らして困ったような顔になった。
「あの…その…」
耳がぽっ、と赤くなった後、エイトは意を決したように私に向き直った。
「ええと…み、見た?」
「みっ、見てないわっ!」
思わず反射的に叫んでしまったけれど、嘘であることは完全に知られている。私はますます恥ずかしくなって俯いてしまったし、エイトはいつもの調子を取り戻したのだから。
「見たんでしょ」
訓練で硬くなった指が、優しく頬に触れる。まるで壊れやすい物でも扱うかのように。
「あの…ちょっと…」
エイトの唇が近付いてくる。
「ちょっと?」
一度離れた唇がまた重なる刹那、問いかける。
「本当にちょっとなの。あの、上だけ脱いで身体を拭いていたでしょう。だから、ちょっと」
「何だ」
唇が塞がれる前に急いで答えると、その後で拍子抜けしたかのようにエイトが笑った。
「もっとまずい物見られたかと思った」
「もっとまずい物?」
ついうっかり口にしてしまったかのように付け加えられた言葉が耳に引っかかったので問いかけると、またも不自然に視線を外された。
「え、いや、何でもない」
「なあに?」
「いやだからその…まずい物だから。色々とその、ほら。そうだ、僕が困ったことになるんだ」
「エイトが?まあ…」
そのようなものがエイトの部屋にあるということはおかしいような気がしたけれど、きっぱり言い切られてしまうとそれ以上の追求はし難い。何とも理不尽な感じに戸惑っていると、不意打ちのように頬に唇が寄せられた。
「エイト」
「見苦しいところをお眼におかけ申したこと、深くお詫び申し上げます。些少ではございますが、お詫びのしるしにございます」
とっても楽しそうにエイトが言う。見苦しいとは思わなかったけれど、その言い方に何だかちょっぴり意地悪してみたくなってしまった。
「エイトったら。本当は自分がしたいから、しているのでしょ」
エイトはびっくりしたような顔でこちらを見た。その顔が見る見る赤くなっていく。
「ええと、その…ミーティアがすごくかわいいし。その…顔を見ていると何だか変なことまで口走ってしまいそうだし…」
エイトの言い分を聞いているうちに、自分の顔がどんどん熱くなっていくのを感じていた。エイトの頬の赤みが私にもうつったよう。
「あの…その…ミーティアも…その…よく分からないことを言ってしまいそうなの…」
つっかえつっかえそう言うのがやっと。どうにも決まり悪くて俯いてしまった。隣のエイトも何だかもじもじしている。

           ※             ※             ※

エイトの部屋のある辺りには警備の衛兵もいない。夜はともかく、昼はトロデーン一の勇者である近衛隊長に護衛など不要なのだから。けれどもそれが災いして、この空気を破ってくれる者は誰も来なかった。
お互い同時に、
「「あの」」
と言いかけては、また決まり悪げに俯いてしまう。
だから、本当にほっとしたの。お父様が私を探しにこちらまで来てくださって。後でこってり─エイトの方がより長く─お説教されると分かっていても。
城の者への示しといったことについていつもよりずっと長く言い聞かせられた。三回目の同じ小言が繰り返された時、正餐の時間が迫っていることが侍従によって伝えられたので私たちは漸く解放された。
「面倒な手続きが済み次第、あの二人の婚礼の式をさっさと挙げるのじゃ!」
とはお父様の部屋を下がる時に聞こえてしまった、入れ替わりで入ってきた大臣への言葉だった。


                                          (終)



2008.11.23 初出




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